20年に渡り超大国の大統領であり続けているウラジーミル・ウラジーミロヴィッチ・プーチン。本来なら2024年に任期切れのはずだったが憲法改正と次の大統領選挙の結果次第では2036年まで大統領でいることができるかもしれないという。スターリンよりも長い独裁だ。「元スパイ」の経歴からとてつもなく強い、怖いとの評判だが私にはどうもこのプーチンという男、強いコンプレックスに捉われているのではないかと感じる。それは何なのか。今回は政治へのコンプレックスを探る。
「スパイ」とはどの程度怖いのか。それを素人のぎょうてんが問うのは無理というものである。その道のプロの著作を読むことをお勧めした上で、まずはプーチン氏の経歴を取り上げる。途中までどうも地味だ。
1975年レニングラード大学法学部卒業と同時にソ連国家保安委員会(KGB)に就職
1985年東ドイツ・ドレスデンに赴任
1990年1月ドレスデンからレニングラードに異動し、レニングラード国立大学学長補佐
5月レニングラード市ソビエト議長(大学時代の恩師アナトリー・サプチャーク氏)の補佐官
1991年6月サプチャークの市長当選に伴いレニングラード市渉外委員長
8月KGB退職
1994年サンクトペテルブルグ市第一副市長
1996年6月サプチャークの市長選敗北によりサンクトペテルブルグ市を辞職
8月大統領府総務局次長
1997年大統領府副長官、大統領監督総局局長
1998年5月大統領府第一副長官
7月連邦保安局(FSB)長官
1999年3月安全保障会議書記(FSB長官と兼務)
8月首相
12月エリツィン大統領の辞任に伴う大統領代行
2000年3月大統領選で勝利、大統領に就任
調べを進めていくと「スパイからの華麗なる転身」ではあるものの、「期待されての大転身」という訳ではなかったらしいことがわかった。特に部隊を率いる規模でもなく、当時出世には不可欠だった特別なコネもなかった。経歴の一大転機はソ連崩壊と大学時代の恩師アナトリー・サプチャークがサンクトペテルブルグ市長選出馬に伴い、プーチン氏を陣営に誘ったことによる。朝日新聞国際報道部の『プーチンの実像』(2019年)によると、ここで市長となった改革派のサプチャークの下で表には姿を見せない影の実力者を指す「灰色の枢機卿」と呼ばれるような働きぶりを見せるものの1996年にサプチャークが市長選に敗れると自身も市役所を去る。副市長時代の働きぶりを見てモスクワに呼び寄せた者がいる。これが誰かはプーチン氏本人がいうことと別だという説とに分かれた。
いずれにせよ次の職にあたる大統領府総務局次長は地味な役職だったらしいがその後異例のスピードで出世する。FSB長官時代には職員2000人削減を断行。給与遅配をなくしたり、コンピューター犯罪対策担当部署を設置したり組織改革に取り組む。しかしその後、同氏の大出世への道を開いたのはどうも外聞の良い話ではないようだ。
エリツィン大統領(当時)の政敵に関する女性絡みのスキャンダル映像がテレビ番組にスクープされた件でFSB長官としてプーチン氏は映像が本物だったと明言し政敵の失脚を決定的なものとする。この一件でエリツィン周辺はプーチン氏の立ち位置を自分達の側にあると評価したのではないかと捉えている書籍もある。エリツィン大統領の取り巻きグループは後継となる人物、それも自分達の意のままに操れるような、政治的基盤も経済的利権にも関係「ない」人物を探していた。それがプーチン氏だったという訳らしい。一方、プーチン氏自身は首相時代、テレビ番組でこうした取り巻きグループから大統領就任の可能性がないと宣言され対峙したように主張している。どちらが真相かは知りようもないが少なくとも同氏の大統領就任時に日本側では「プーチン氏に関する資料がない。どのような人物なのか。」と焦っていた、その程度の知名度に該当する人物だったようである。
その後は佐藤優氏によると「ソ連崩壊によって職をなくした旧KGB職員や格闘技をずっと学び旧ソ連時代ならスポーツ学校の教師になっていたような人間を呼び寄せ、自身の政敵を色々な方法で倒していった」らしい。またある新聞によると「経済には疎い中佐出身の政治家」となかなか辛辣な評価もある。すると政敵を打倒し、一対一の対人関係では相手をよく読む「人たらし」に長けて入るものの経済政策には弱い政治家なのかということになる。この辺りの評価は素人には判断がつかない。
(「プーチンさんの胸のうち(4)」へ続く)
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