昨日は、伯母の葬儀のため埼玉へ行ってきました。
先週末、従妹から、伯母が亡くなったという連絡が入り、昨日が告別式でした。
伯母というのは、母の兄の連れ合いです。
母の兄である伯父が若くして亡くなったため、家は祖母と伯母と従妹の女ばかり三人で生活していました。
伯父は、43歳で亡くなり、その時の伯母の年齢が36歳だったとか。
伯父が亡くなったのが、私が生まれた年だったので、私は伯父とは会ったことも見たこともありません。
写真も見たことがなかったので、伯父の顔すら知りません。
しかも、昨日初めて、伯父の名前が「一郎」という名前だったというのを知りました。
67歳にして初めて母親の兄の名前を知ったというわけです。
亡くなった伯母は、101歳だったそうです。
かなり高齢で、そろそろ百歳近くなるんだろうなとは思っていましたが、百歳を超えていたとはびっくりでした。
死因は、今よく耳にする誤嚥性肺炎でした。
8月に入院して、そのまま亡くなったそうです。
最後は、何も食べることもできず、点滴も受け付けなくなり、今日か明日かという日々だったそうですが、そんな状態のまま15日間生きたんだそうです。
心臓が丈夫な人だったということです。
伯母は、飄々とした人でした。
何事にも淡々としていて、感情を表に出さず、物静かで、穏やかな人でした。
あまりにマイペースなところがあったため、私の母は、一時反感のようなものを持っていたようです。
というのも、伯母の連れ合いである母の兄が亡くなった時も、母の母親が亡くなった時も、伯母は、特に感情を表に出さず、淡々としていたからだろうと思います。
自分の兄や母親を亡くした母にとっては、そんな伯母の態度が理解できなかったんだと思います。
母は、義姉である伯母に対して、あまり良い感情を持っていなかったように思います。
それでも、母にとっては、実家に当たる場所なので、年に何度かは訪れていました。
私が、中学生くらいの頃だったと思いますが、夏休みに、私一人で伯母の家に遊びに行きました。
何泊かしたと思います。
その頃は、従妹もすでに結婚していて、ご主人と三人の子供とにぎやかにすごしていました。
『いとこのHちゃん』
当時の家は、台所もお風呂もトイレも家の外にあるような建物でした。
その時、私がお風呂に入っていたところ、伯母がやってきて、
「はーちゃん、よく来たねぇ。背中流してあげるよ。」
と言って、丁寧に私の背中を流してくれました。
まだ中学生くらいの私は、他人に背中を流してもらうなんて初めての経験でした。
でも、とても気持ちが良かったのを覚えています。
家に帰ってから、そのことを母に話すと、母はとても驚いて
「えっ?あの義姉さんが背中を流してくれたの?
へぇ~、我関せずで、周りのことなんか気にも留めない人だったのに、義姉さんも変わったのね。」
と、言っていました。
そのこと以来、母の伯母を見る目が変わったように思います。
それからも、私が結婚するまでの間、年に一~二度は、母と一緒に伯母の家に遊びに行っていたように思います。
私が結婚してからは、私は行かなくなりましたが、母や弟たちは、同じように毎年伯母の家を訪ねていたようです。
冷たくなって眠っていた伯母は、しわ一つなく、きれいな顔をしていました。
101歳まで、元気で生きていた伯母なので、昨日の葬儀は、特に身内からの涙はなく、むしろ、伯母が仲良くしていた近所の人たちが泣いていました。
家業が花作りのせいか、花で一杯の葬儀で、お棺の中に入れる花は、入りきれないくらいで、たくさんの花がお棺から溢れていました。
それでも、まだたくさん余った花は私たちに配られ、持ち帰ってきました。
配られた会葬御礼には、普通の葬儀にはない祝儀袋が入っていました。
101歳なので、101円入っているのかな?と思いましたが、105円入っていました。
身内に何かあると、真っ先に私に連絡してきて、世話をやいてくれた弟がいなくなってしまったことの寂しさを改めて感じた日でもありました。
伯母の冥福を祈りたいと思います。
先週末、従妹から、伯母が亡くなったという連絡が入り、昨日が告別式でした。
伯母というのは、母の兄の連れ合いです。
母の兄である伯父が若くして亡くなったため、家は祖母と伯母と従妹の女ばかり三人で生活していました。
伯父は、43歳で亡くなり、その時の伯母の年齢が36歳だったとか。
伯父が亡くなったのが、私が生まれた年だったので、私は伯父とは会ったことも見たこともありません。
写真も見たことがなかったので、伯父の顔すら知りません。
しかも、昨日初めて、伯父の名前が「一郎」という名前だったというのを知りました。
67歳にして初めて母親の兄の名前を知ったというわけです。
亡くなった伯母は、101歳だったそうです。
かなり高齢で、そろそろ百歳近くなるんだろうなとは思っていましたが、百歳を超えていたとはびっくりでした。
死因は、今よく耳にする誤嚥性肺炎でした。
8月に入院して、そのまま亡くなったそうです。
最後は、何も食べることもできず、点滴も受け付けなくなり、今日か明日かという日々だったそうですが、そんな状態のまま15日間生きたんだそうです。
心臓が丈夫な人だったということです。
伯母は、飄々とした人でした。
何事にも淡々としていて、感情を表に出さず、物静かで、穏やかな人でした。
あまりにマイペースなところがあったため、私の母は、一時反感のようなものを持っていたようです。
というのも、伯母の連れ合いである母の兄が亡くなった時も、母の母親が亡くなった時も、伯母は、特に感情を表に出さず、淡々としていたからだろうと思います。
自分の兄や母親を亡くした母にとっては、そんな伯母の態度が理解できなかったんだと思います。
母は、義姉である伯母に対して、あまり良い感情を持っていなかったように思います。
それでも、母にとっては、実家に当たる場所なので、年に何度かは訪れていました。
私が、中学生くらいの頃だったと思いますが、夏休みに、私一人で伯母の家に遊びに行きました。
何泊かしたと思います。
その頃は、従妹もすでに結婚していて、ご主人と三人の子供とにぎやかにすごしていました。
『いとこのHちゃん』
当時の家は、台所もお風呂もトイレも家の外にあるような建物でした。
その時、私がお風呂に入っていたところ、伯母がやってきて、
「はーちゃん、よく来たねぇ。背中流してあげるよ。」
と言って、丁寧に私の背中を流してくれました。
まだ中学生くらいの私は、他人に背中を流してもらうなんて初めての経験でした。
でも、とても気持ちが良かったのを覚えています。
家に帰ってから、そのことを母に話すと、母はとても驚いて
「えっ?あの義姉さんが背中を流してくれたの?
へぇ~、我関せずで、周りのことなんか気にも留めない人だったのに、義姉さんも変わったのね。」
と、言っていました。
そのこと以来、母の伯母を見る目が変わったように思います。
それからも、私が結婚するまでの間、年に一~二度は、母と一緒に伯母の家に遊びに行っていたように思います。
私が結婚してからは、私は行かなくなりましたが、母や弟たちは、同じように毎年伯母の家を訪ねていたようです。
冷たくなって眠っていた伯母は、しわ一つなく、きれいな顔をしていました。
101歳まで、元気で生きていた伯母なので、昨日の葬儀は、特に身内からの涙はなく、むしろ、伯母が仲良くしていた近所の人たちが泣いていました。
家業が花作りのせいか、花で一杯の葬儀で、お棺の中に入れる花は、入りきれないくらいで、たくさんの花がお棺から溢れていました。
それでも、まだたくさん余った花は私たちに配られ、持ち帰ってきました。
配られた会葬御礼には、普通の葬儀にはない祝儀袋が入っていました。
袋には、『長寿銭』と書かれていました。
101歳なので、101円入っているのかな?と思いましたが、105円入っていました。
身内に何かあると、真っ先に私に連絡してきて、世話をやいてくれた弟がいなくなってしまったことの寂しさを改めて感じた日でもありました。
伯母の冥福を祈りたいと思います。