昨日は、いとこの連れ合いの告別式でした。
亡くなったのは、先週でしたが、お寺の住職さんの都合がつかず、告別式は昨日行われました。
場所は埼玉県なので、かなり遠く、私は、通夜は失礼させていただき、告別式だけの参列にさせていただきました。
亡くなったのは、以前、私が書いた『いとこの結婚』という記事のHちゃんの連れあいです。
その時にも書きましたが、年がずいぶん離れているので、享年85歳だったそうです。
3年以上わずらっていて入院生活を続けていたらしく、実際、今年までもたないだろうと家族も覚悟していたところ、2月まで持ち堪えたそうです。
Hちゃんには、今年98歳になる母親(私にとっては、伯母ですが)がいて、伯母は、耳が遠いのを除いては、まだまだ元気で
「あー、逆になってしまった。私が先に逝くべきだった」
と嘆き、それを短歌にしていたということでした。
私も20年ぶりくらいに会ったのですが、話し方はしっかりしていて、とても98歳になろうとしている人とは思えませんでした。
いとこの家は、母の実家なので、母が健在だった時は、私の結婚後も数回尋ねたことがありましたが、母が亡くなってからは縁が薄くなってしまい、年賀状のやりとりくらいで、ずっとご無沙汰続きの関係でした。
とにかく交通の便の悪いところで、昔は、秩父線の小さな駅から、バスに揺られてやっと着くような場所で、今でもその辺の不便さは変わらず、斎場に行くまで、どうしたものかと悩みました。
電車に乗って、しかもたった一人で、いとこの家まで出かけるのは初めてだったので、ちょっぴり不安でした。
斎場に電話して問い合わせたところ、高崎線の駅からタクシーで来るようにということでした。
電車の乗り継ぎをネットで調べましたが、慣れない電車で迷わずに乗れて、指定された時間の電車に間に合うのかどうか不安でした。
それで、1本早い電車に乗ることにしました。
でも、乗り換え案内を見て、とても驚きました。
乗り継ぎなどに便利な場所もちゃんと書いてあるんです。
最初の電車は、何号車、次の電車は、真ん中から後方などと親切に、電車に乗る位置まで教えてくれるのにはびっくりでした。
それで、乗り換え案内の紙を印刷して、それを持ちながら指示された通りの位置に乗りました。
おかげで、大きな駅でも迷わず、最短時間で上手く乗換えができました。
高崎線の駅にかなり余裕の時間に到着し、のんびりトイレを済ませて、斎場の人に教えられたとおりの出口に行きました。
すると、確かにタクシー乗り場はあるのですが、肝心のタクシーが一台もありません。
少し待ってみましたが、タクシーが来るような様子はありません。
地図は用意してきましたが、タクシーで15分くらいの距離と聞いていたので、いくら余裕のある時間と言っても、歩いて斎場まで行けるような距離ではないと思いました。
とりあえず、弟に電話してみました。
でも、弟は、電話に出ません。
運転中かもしれないと思いました。
仕方ないので、駅の中に戻り、駅員さんに、タクシーを呼べないものかと聞いてみました。
すると、3社のタクシーの連絡先を書いた紙を渡してくれました。
一番上に書かれているところに電話しました。
でも、「そちらに行ける車は今のところない」と言われてしまいました。
再度、弟に電話してみました。
でも、弟は出ません。
仕方なしに二つ目に書かれているところに電話しました。
そこでは、「そちらに向かっている車があるけれど、10分くらいは、お待ちいただくようです。」
と言われました。
待つしかないなと思いました。
ベンチに座ってタクシーが来るのを待ちましたが、雪が残る駅周辺は風が冷たく時間が経つのがずいぶん遅く感じられました。
10分近く待ちましたが、タクシーが来るような様子はなく、告別式開始の時間も徐々に迫りつつあり、焦ってきました。
もう一度、弟に電話してみました。
すると、今度はすぐに電話がつながりました。
私が何も言う前に、弟が
「今、どこにいるの?」
と言ってきました。
「駅に着いたんだけど、タクシーが一台もなくて困っているの。」
というと、
「すぐに迎えに行く」
と言ってくれました。
ほっとしました。
弟が来るのをしばらく待っていると、タクシー乗り場に、一台のタクシーが入ってきました。
先ほど電話した会社のタクシーだと思いました。
告別式が始まるまでにあまり時間がなくなっていたので、弟に電話して、
「今、タクシーが来たから、それに乗って行こうと思う。」
と言うと、電話口には同乗していた甥が出て、
「親父が、『もうちょっとで着くから、待っていて』と言ってる」
と。
おかげで、無事に斎場に着きました。
余裕のよっちゃんで駅に着いたはずなのに、受付を済ませると、すぐに式は始まり、しばらくぶりに会ったいとこのHちゃんや子供たちとゆっくり話をする時間もありませんでした。
葬式というのは、地方、地方でやり方が異なるもので、当地は、告別式の日に、初七日、そして納骨まで済ませてしまうそうです。
東京や私の地域では、初七日までは、告別式の日にやってしまいますが、納骨は四十九日にするのが通例です。
長野のある方面では葬儀の前に遺体を焼いてしまうというところもあるので、本当に同じ国でもさまざまだと思います。
それと、是非、書いておこうと思ったのは、住職のお経です。
母の実家がどういう宗派なのか知りませんが、とにかくユニークなお経でした。
まるで浪花節のよう・・・というか、どう表現したらよいかわかりませんが、お経って、区切りの最後を
○○○イィィ~とか、△△△うぅぅ~などと、伸ばしますよね。
その、伸ばした発音の最後にイッ!とかうッ!と叫ぶように大声を出します。
そして、お経の最後は、ヤーッ!だったかワーッ!だったか、びっくりするほど大きな声で、長く叫びました。
私は、最初にお経の途中の大声を聞いたときは、びっくりして、思わず隣にいる弟の顔を見てしまいました。
でも、弟は、目をつぶったままじっとしていたので、何も声をかけることができずにいました。
私は、実際、笑い出しそうになりました。
だって、あんなお経、初めてです。
しかも、最後の叫びは何だったのぉ?
葬儀が終わってから、そのことを弟に言うと、
「通夜の席の方が、もっとすごかったよ。」
と言っていました。
なので、告別式の時は、さほど驚かなかったとか。
いやいや、私もこの年まで、色々な葬儀に参列しましたが、あんなお経は初めてです
しかも、その住職のつけた戒名も変わっていて、まるで落語家の名前みたいだなと思いました。
納骨は、私が以前住んでいた家の前のお寺で行われました。
そのお寺でのことも以前、ブログに書いたことがあります。
『百日紅』
私が当時、このお寺の子供と遊んだ建物は、そのままの形で残っていました。
ここです、ここです!
この部屋で、まさおちゃんと塗り絵をして遊んでいたんです!
リフォームして、概観はきれいになっていましたが、建物は、あの時のままでした。
懐かしさで一杯になりました。
境内は、雪で覆われていました。
屋根からはツララが垂れ下がっていました。
私が以前住んでいた家は、跡形もなく、どの辺が以前の家だったのかさえ、わかりませんでした。
そして、私の思い出の百日紅も、見当たらず・・・
と思いましたが、小さく刈り取られて、以前と同じ場所にありました。
私が子供の頃は、木に登れるくらいの大きさがあったのに、今は細い枝が数本見られただけでした。
本当は、もっとゆっくり私の思い出の場所を歩きたかったのですが、そうも行かず、思うように写真も撮れずに帰ってきました。
亡くなったいとこの連れ合いは、穏やかでいつも笑顔を絶やさない人だったようです。
告別式のときの、小学校からの親友だった人の弔辞でも、その、人となりが語られました。
いとこのHちゃんとは、以前の記事にも書きましたが、色々ないきさつがあり、年の離れたご主人でしたが、いとこにとっては、最良のパートナーだったのではないかと思いました。
ご冥福を祈りたいと思います。
亡くなったのは、先週でしたが、お寺の住職さんの都合がつかず、告別式は昨日行われました。
場所は埼玉県なので、かなり遠く、私は、通夜は失礼させていただき、告別式だけの参列にさせていただきました。
亡くなったのは、以前、私が書いた『いとこの結婚』という記事のHちゃんの連れあいです。
その時にも書きましたが、年がずいぶん離れているので、享年85歳だったそうです。
3年以上わずらっていて入院生活を続けていたらしく、実際、今年までもたないだろうと家族も覚悟していたところ、2月まで持ち堪えたそうです。
Hちゃんには、今年98歳になる母親(私にとっては、伯母ですが)がいて、伯母は、耳が遠いのを除いては、まだまだ元気で
「あー、逆になってしまった。私が先に逝くべきだった」
と嘆き、それを短歌にしていたということでした。
私も20年ぶりくらいに会ったのですが、話し方はしっかりしていて、とても98歳になろうとしている人とは思えませんでした。
いとこの家は、母の実家なので、母が健在だった時は、私の結婚後も数回尋ねたことがありましたが、母が亡くなってからは縁が薄くなってしまい、年賀状のやりとりくらいで、ずっとご無沙汰続きの関係でした。
とにかく交通の便の悪いところで、昔は、秩父線の小さな駅から、バスに揺られてやっと着くような場所で、今でもその辺の不便さは変わらず、斎場に行くまで、どうしたものかと悩みました。
電車に乗って、しかもたった一人で、いとこの家まで出かけるのは初めてだったので、ちょっぴり不安でした。
斎場に電話して問い合わせたところ、高崎線の駅からタクシーで来るようにということでした。
電車の乗り継ぎをネットで調べましたが、慣れない電車で迷わずに乗れて、指定された時間の電車に間に合うのかどうか不安でした。
それで、1本早い電車に乗ることにしました。
でも、乗り換え案内を見て、とても驚きました。
乗り継ぎなどに便利な場所もちゃんと書いてあるんです。
最初の電車は、何号車、次の電車は、真ん中から後方などと親切に、電車に乗る位置まで教えてくれるのにはびっくりでした。
それで、乗り換え案内の紙を印刷して、それを持ちながら指示された通りの位置に乗りました。
おかげで、大きな駅でも迷わず、最短時間で上手く乗換えができました。
高崎線の駅にかなり余裕の時間に到着し、のんびりトイレを済ませて、斎場の人に教えられたとおりの出口に行きました。
すると、確かにタクシー乗り場はあるのですが、肝心のタクシーが一台もありません。
少し待ってみましたが、タクシーが来るような様子はありません。
地図は用意してきましたが、タクシーで15分くらいの距離と聞いていたので、いくら余裕のある時間と言っても、歩いて斎場まで行けるような距離ではないと思いました。
とりあえず、弟に電話してみました。
でも、弟は、電話に出ません。
運転中かもしれないと思いました。
仕方ないので、駅の中に戻り、駅員さんに、タクシーを呼べないものかと聞いてみました。
すると、3社のタクシーの連絡先を書いた紙を渡してくれました。
一番上に書かれているところに電話しました。
でも、「そちらに行ける車は今のところない」と言われてしまいました。
再度、弟に電話してみました。
でも、弟は出ません。
仕方なしに二つ目に書かれているところに電話しました。
そこでは、「そちらに向かっている車があるけれど、10分くらいは、お待ちいただくようです。」
と言われました。
待つしかないなと思いました。
ベンチに座ってタクシーが来るのを待ちましたが、雪が残る駅周辺は風が冷たく時間が経つのがずいぶん遅く感じられました。
10分近く待ちましたが、タクシーが来るような様子はなく、告別式開始の時間も徐々に迫りつつあり、焦ってきました。
もう一度、弟に電話してみました。
すると、今度はすぐに電話がつながりました。
私が何も言う前に、弟が
「今、どこにいるの?」
と言ってきました。
「駅に着いたんだけど、タクシーが一台もなくて困っているの。」
というと、
「すぐに迎えに行く」
と言ってくれました。
ほっとしました。
弟が来るのをしばらく待っていると、タクシー乗り場に、一台のタクシーが入ってきました。
先ほど電話した会社のタクシーだと思いました。
告別式が始まるまでにあまり時間がなくなっていたので、弟に電話して、
「今、タクシーが来たから、それに乗って行こうと思う。」
と言うと、電話口には同乗していた甥が出て、
「親父が、『もうちょっとで着くから、待っていて』と言ってる」
と。
おかげで、無事に斎場に着きました。
余裕のよっちゃんで駅に着いたはずなのに、受付を済ませると、すぐに式は始まり、しばらくぶりに会ったいとこのHちゃんや子供たちとゆっくり話をする時間もありませんでした。
葬式というのは、地方、地方でやり方が異なるもので、当地は、告別式の日に、初七日、そして納骨まで済ませてしまうそうです。
東京や私の地域では、初七日までは、告別式の日にやってしまいますが、納骨は四十九日にするのが通例です。
長野のある方面では葬儀の前に遺体を焼いてしまうというところもあるので、本当に同じ国でもさまざまだと思います。
それと、是非、書いておこうと思ったのは、住職のお経です。
母の実家がどういう宗派なのか知りませんが、とにかくユニークなお経でした。
まるで浪花節のよう・・・というか、どう表現したらよいかわかりませんが、お経って、区切りの最後を
○○○イィィ~とか、△△△うぅぅ~などと、伸ばしますよね。
その、伸ばした発音の最後にイッ!とかうッ!と叫ぶように大声を出します。
そして、お経の最後は、ヤーッ!だったかワーッ!だったか、びっくりするほど大きな声で、長く叫びました。
私は、最初にお経の途中の大声を聞いたときは、びっくりして、思わず隣にいる弟の顔を見てしまいました。
でも、弟は、目をつぶったままじっとしていたので、何も声をかけることができずにいました。
私は、実際、笑い出しそうになりました。
だって、あんなお経、初めてです。
しかも、最後の叫びは何だったのぉ?
葬儀が終わってから、そのことを弟に言うと、
「通夜の席の方が、もっとすごかったよ。」
と言っていました。
なので、告別式の時は、さほど驚かなかったとか。
いやいや、私もこの年まで、色々な葬儀に参列しましたが、あんなお経は初めてです
しかも、その住職のつけた戒名も変わっていて、まるで落語家の名前みたいだなと思いました。
納骨は、私が以前住んでいた家の前のお寺で行われました。
そのお寺でのことも以前、ブログに書いたことがあります。
『百日紅』
私が当時、このお寺の子供と遊んだ建物は、そのままの形で残っていました。
ここです、ここです!
この部屋で、まさおちゃんと塗り絵をして遊んでいたんです!
リフォームして、概観はきれいになっていましたが、建物は、あの時のままでした。
懐かしさで一杯になりました。
境内は、雪で覆われていました。
屋根からはツララが垂れ下がっていました。
私が以前住んでいた家は、跡形もなく、どの辺が以前の家だったのかさえ、わかりませんでした。
そして、私の思い出の百日紅も、見当たらず・・・
と思いましたが、小さく刈り取られて、以前と同じ場所にありました。
私が子供の頃は、木に登れるくらいの大きさがあったのに、今は細い枝が数本見られただけでした。
本当は、もっとゆっくり私の思い出の場所を歩きたかったのですが、そうも行かず、思うように写真も撮れずに帰ってきました。
亡くなったいとこの連れ合いは、穏やかでいつも笑顔を絶やさない人だったようです。
告別式のときの、小学校からの親友だった人の弔辞でも、その、人となりが語られました。
いとこのHちゃんとは、以前の記事にも書きましたが、色々ないきさつがあり、年の離れたご主人でしたが、いとこにとっては、最良のパートナーだったのではないかと思いました。
ご冥福を祈りたいと思います。