弁天島は、浜名湖を代表する島です、江戸時代の初めのころは西野とか狐島と呼ばれていましたが、中期の宝永年間弁天社が勧請されたことから弁天島と呼ばれるようになりました。東海道舞坂宿から西の新居宿に向かうには、浜名湖を船で渡らなければなりませんでした。今切の渡しです。湖上1里の船旅は旅人にとって弁天島の白砂青松の眺めが楽しみでしたが、その反面風波の激しいときには危険もはらんでいました。
弁天島が海水浴場として、また、保養地として脚光を浴びるようになったのは、明治の中期からで、多くの文人も訪れるようになり、旅館の数も増えていきました。島の南岸から見た夕日は遠州灘の雲を赤く染め、美しい風景を生み出しています。弁天神社境内に立てられている正岡子規の句碑は遠江における代表的な存在として知られています。舞坂宿は宿場であると共に、昔から漁業の里として知られています。
「遠江八景」選定委員会
弁天島が海水浴場として、また、保養地として脚光を浴びるようになったのは、明治の中期からで、多くの文人も訪れるようになり、旅館の数も増えていきました。島の南岸から見た夕日は遠州灘の雲を赤く染め、美しい風景を生み出しています。弁天神社境内に立てられている正岡子規の句碑は遠江における代表的な存在として知られています。舞坂宿は宿場であると共に、昔から漁業の里として知られています。
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