道理にそって 国家の 経綸を 行っていくことが 何より
一番の 安全保障なのだ。という自信を持つことこそ日本
出なければ できない ことではないか。
ひとつの 寓話であるが 上泉伊勢守という 剣聖がいた。道場からの帰り道に でかい牛がつないでいた。
伊勢守は その牛の後ろを遠回りして 帰った。それを見ていた同僚は 何打あいつ 牛がそんなに怖いのか
と大笑いした。という話にはみんな乗らない。
みんなが乗るのは 京の五条の端の上をひらり ひらりと 飛びはねて 持った扇を投げつけて
鬼の弁慶を謝らせた牛若の話にはよく乗るのだが 道理を含んでいるのは伊勢守理法である。
よく言われる「身に寸鉄をおびず。」武芸の本質はここにある。
葉隠れに「武士道とは死ぬことと見つけたり。」という言葉が出てくる。
「死線をこえた人間には そこでつかんだ 絶対の哲学を持つに
いたる。」幾たびが 辛酸をえて 志初めて難し。」と西郷は説いている。
沖永良部に流罪になった 西郷は 屋外に組まれた牢の中で暮らす。雨さらし日さらし文字道理の
囚人の生活であったという。このままでは死ぬというので代官土持氏の母親が 何とか先生を
救ってくれということ それからは 普通の生活に入る。
是が維新の魂である。現在維新の当というのがあるが当時の維新とは無関係らしい。志が
まるっきり違っている。汚物を見るようだ。
その西郷が目指す国家の統治について、天道に元ずく政治を標榜している。即、道義の政治である。いかに文明開化といえども
人間社会に悪なものは、簡単に導入してはならない。
人は古臭いというだろうが、原発は西郷だったら その様なものを
持ち込んではならないと 真っ向に否定していたであろう。
絶対というものは 神は人に与えていないということを科学者は
知るべきである。