「短気は損気.短気ものに出世するもんはおらん.」そういいながら 私の指に赤い毛糸をまきつけていた.
私の生まれた年が「普通選挙法」が施行された年である.政党政治の一瞬の輝きが日本に存在したころである.
地方の首長や議員の選挙もそれは 激しいものでした.任侠映画のように出入りも多かった.
子供たちの世界にも 大人の影響を受けて 良く喧嘩も耐えることはなかった.
いまだに 私の左型には薄く 切り傷が残っているのは 父親のジャックナイフを持ち出した子が 私が突き出した
竹やりをむんずとつかんで思い切り きりつけてきた.その傷跡であるる.
親に見せたら しかられるのが恐くて,病院の看護婦さんに頼んで 使用毒してもらった.
私の家では中学受験に失敗したら,浪人して再度挑戦することはなかった.
逸かいで合格しなければ 満蒙開拓義勇団雪ということに決められていた.
仮に私が東大に合格したとしても「おめでとう.良かったね.」それだけのことである.
母の認識では学校の区別というものがなかった.
「泣いて暮すも一生,笑ってクラスも一生」というタイプだ.
ある議員さんが博多駅でおんなに切りつけられたという事件があった.轟々たる非難が新聞で
拡散された.しかし,母の見方は違った.
「女 にももてんような 男が 何で国民の役に立つものね.」
男なら女も買ってみよ.博打も打つてみんね. でもそれにはまってしもう男は糟よ.
こんな気性の激しい母親に育てられたから 私は あまりストレスを感じない.
いじめにあっているんだろうが そう 感じないから 相手も力が抜けてしまうんじゃないかと思う.
小学校に 入学した ピッ家ピッかの一年生の 筆箱には 肥後の神が男のこにも女の子にも
入っていた. 肥後の神を振り回して友だちに傷を負わせるものは ただの一人も見たことがない.
元を正せば皆 兄弟みたいなものという意識を共有していたのかもしれないる