4/6(土)「野生の棕櫚」と「オールド・マン」という違う物語が交互に語られていく小説『野生の棕櫚』(ウィリアム・フォークナー著)オンライン読書会でした。
参加者は、くらさん、風太さん、はづきさん、yuiさん、八方美人男さん、スウの6人。
主催者であるくらさんが、今回は途中まで読むのに苦労して、「今までの課題書の中では一番の難物だったんじゃないか」と危機感を抱いたそうです。でも、「その後解像度がぐっと上がった」とも。いつも最後にコメントされるのですが、珍しくご自身から語って頂きました。
(以下はおおよその書き起こし備忘録です。あんまりネタバレしないように一部ぼかしてます)
***くらさん
作中の倫理観について、当時(1937年)とは我々の意識が変わってしまっているので、果たしてフォークナーが意図した通りにこっちが読んでいるのか疑問なところがありました。
「オールド・マン」については、たぶん印象はそんなに(時代によって)変わらない。こちらはあまり運命に抗わない人の話として読みました。囚人は、起こったことや罪についても自分の責任として受け止めていて、あんまりロマンチシズムみたいなものはない。わりと本能の世界の中で生きている人の話という印象を受けます。
「野生の棕櫚」の方は、たぶん当時としてはすごくロマンティックな、「情熱のままに生きるとどうか」みたいな話だったと思われますが、女性が妊娠しているのに手術をなかなかしないまま…という問題が生じている。なので今の視点で読むと、それ悩んでる場合じゃなくない?っていう。
早く中絶しないと、どんどん大変なことになってしまう問題があるけれども、それはもうロマンチシズムの対極にあるような超現実的な問題で。それを回避しようとすればするほど、逆に最終的には悲惨なことになる超現実の方に引っ張られていく。
そういう変な綱引きみたいなものが発生してしまって、それを現代の視点で読むと、こいつ何やってんだみたいな話に正直なる。ロマンチシズムの方が立ち上がってこない。情熱どころじゃないっていう話になってしまうので、当時の価値観と今の人が読んだ感覚はだいぶ違ってしまうのでは。
あと「野生の棕櫚」のハリーは、とにかく決定的な何かを決められない。後回しにしていくんですね。その感覚は私もすごくよくわかるし、そこが現代の若者的でもあるなと思ったんですが。
ただ、やっぱり女性の身体に関する倫理観とか彼女のことをどう処理するつもりなのか、そういう問題がずっと引っかかり続ける。当時の人たちは、もしかしたらそのあたりは、もちろん中絶はNGだし、こういうシャーロットのような女性は冗談じゃないみたいな扱いで、逆にあまり気にならなかったんだろうなという気はします。
ただ、読んでいると情熱のままに生きてどんどんドツボにはまっていくヘンリーの姿と、情熱らしきものが全く見受けられない「オールド・マン」の囚人の姿との対照性は、当時意図したものがそのままこっちに響いているかどうかはともかく、なかなか面白いんじゃないかなと思いました。
全く別の話が同時に進行されるという形式は、当時としてはかなりアバンギャルドだったのではないかなと思います。なぜフォークナーがこれを書こうと思ったのかというのが、一番興味深いところですね。
以上です。
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ありがとうございました。確かに価値観は、国が違うだけじゃなく87年前の小説なので現在の我々と大きく違っているのは自然なことですね。そんな中でもこのハリーと囚人の対称性が興味深いし、その対比には普遍的な面白さがあると思います。(スウ)
ほかの方のぶんも別途続きます~。