戦争末期の昭和19年4月から1年間、滋賀県大津市の小学5年生の少女たちが197枚の絵日記を書きました。
この日記を書くように子供たちに勧めたのは、当時27歳の西川綾子先生でした。
「雑誌も本も絵本も、子供たちの手に入りません。
ラジオは戦争の実況ばかり。
新聞も戦争の記事でうずめられています。
感性豊かな5年生の女の子たちに、どうにかして文化を与えたい。
芸術を与えたい。
表現力を与えたい。
それがないなら私たち、自分たちで文化を作っていくしかない」
そう考えて絵日記を書くことを思いついたそうです。
大人の裏の顔を知る
先生は、「見たまま、感じたままを描きなさい」とだけ言い、書いたものにあれこれ批判などしませんでした。
(5人くらいの係で1枚描いていました)最初の頃は、意外とのんきで入学式のことなどを書き、「親孝行・勉強」などが主題でしたが、少女たちは日記に書くことを探しているうちに、周囲の花や動物、状況を良く見るようになります。
例えば6月、出征する叔父を見送る時には旗を振っていた叔母は、前日の祝宴では陰で泣いていた。ヤミ米の取引はいけないとわかっていても農家はお互いの生活のために行っていた。大人の世界に裏と表があることを知ります。
好戦的になっていく少女たち
9月には本土決戦が迫り、都会の子どもが疎開してきた様子が描かれます。12月には本土への攻撃が激しくなり、学校では竹やり訓練を行っていました。
絵日記を描いた一人、現在81歳の女性は「内心は負けると思っていた。その時の風潮で、さびしいとか悲しい、苦しい、辛いは書けなかった」と語ります。17歳のお兄さんがフィリピンへ出征した時のことも描いています。
当時クラスでは、反省会と称してクラスメイトを名指しして批判することも行われていました。子供たちにも大人の厳しさが伝わり、いじめのような状態を招きました。その中でも、無事を祈って「陰膳」という写真を飾る風習のことも描かれ、「写真に向かって伝えたい言葉を言うと、心が軽くなりやさしい気持ちになれた」と女性は当時を振り返りました。
日記をやめさせた西川先生の思い
20年の1月にはのどかだった町にB29の姿が現れました。少女たちの日記は徐々に好戦的になっていきます。見えなかった敵を目にして気持ちが黒一色になっていきました。3月19日、銀色に光り輝くB29の絵を、真っ黒に塗りつぶし「今に見ていろ」と書いたのです。
その日、西川先生は「もう終わりにしましょう」と言い、絵日記を書くことをやめさせました。
西川先生の心中を思うと、どうにも泣けてしまいます。
昨年は「僕の息子について君が教えてくれたこと」など、NHKのドキュメンタリーにけっこう感動していました。
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