平成29年5月13日(土)
2017年 名鉄のハイキング 東海の自然歩け歩け大会・春
「岐阜命名450年~信長公ゆかりの地を巡る~②」の続きです。
左へ行くと河原町広場へと続きます。
行ってみます。
(*'ω'*)......ん?
なにやら賑やかな雰囲気。。
入口でラッキーカードの配布がありました。。
これは珍しい。
ゾロ目の888でした。。
織田信長公 岐阜入城と岐阜命名450年。
ステージで先ほどまで何かやっておりましたが、終わってしまいました。
残念w
ちょうどお昼を過ぎていたので、イベントは終わった感じでした。
コースはこちらの細い道へと続きます。
すると河原町の通りに出ました。
この通りは、古い町並みが続きます。
河原町の提灯。
夜は明かりが燈されるのかしら?
見てみたいですね^-^
今回のコースは、鵜飼い観覧船の反対側へ歩いていきます。
長良川の河川敷道を歩くみたいです。
行ってみます。。
また雨が降ってきましたw
降ったり止んだり。
傘出したり、たたんだりw
あの大きな橋へ向かいます。。
金華橋です。
この橋を渡っていきます。。
歩いてきた方向です。
金華山にはまだまだ厚い霧がかかっていますね。
早く晴れないかしら?
橋を渡って少し行くと、あと3キロの案内がありました。
まだまだありますねw
「崇徳寺」に着きました。
とても歴史のあるお寺さんです。
お参りしていきます。。。
長い参道だわw
崇徳寺は、信長公が永禄10年(1567年)に美濃に移ると、若くして亡くなった側室吉乃(信忠の母)の菩提寺として保護したお寺さんです。
稲葉一鉄寄贈の梵鐘。
大東亜戦争で元の梵鐘は供出され、造りかえられたそうです。。
こちらから内部を拝観できるそうです。
入ってみます。
本堂内です。
写真撮影出来ないところがあるので、あまり撮れませんw
崇徳寺
神護山 崇徳寺は、臨済宗妙心寺派に属しており、永正八年(1511)斉藤利匡により創建された。
開山は独秀乾才禅師。
(; ̄ー ̄)...ン?
血天井?
何やら汚れていますね。
あれが血かしら?
信長公の孫、三法師秀信は、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦前夜(約一か月程前)家来の反対を押し切り西軍に属し、東軍の攻撃を受け岐阜城は落城。
その際、三十八名の将兵は討死にや割腹自殺をした。
菩提を弔うために、その時の血痕の付着した床板を、天井に張りめぐらしたのである。。
なお、秀信は数名の家来に伴われ、円徳寺で剃髪をしてもらい高野山に落ちのびたが、かの地で若死にをしているという。
(*・ε・*)ムー
ピンぼけw
どうしてもピントが合いませんでした。
ハッキリ写っても怖いしねぇ。
ご冥福をお祈りします。
一番奥の部屋にあった屏風。
この向かいには沢山の位牌が祀られていました。
撮影は×
本堂の拝観を終えて外に出ると、受付の方がこっちこっちと案内してくれたのが、小さな引き戸を入ったこちらの庭。
小道が続いているので行ってみることに。。
さて、どこに続いているのかしら?
だいぶ奥まで続いていますね。。
石碑がありました。
織田信長父子の墓標のようです。
石碑には字が描かれているのですが、薄くてわかりづらい。
お隣に御廟がありました。
この中に父子の位牌が安置されているそうです。
さらにお隣に、斉藤利匡一族のお墓がありました。
元々この寺は、明徳元年(1390)春に、壇越土岐満康が太清宗渭の直弟、竜潭宗濬を住持に詔請した。
しかし、多忙のためその師弟太白真玄にその地位を譲り、 太白真玄が赴任し開山となり、大寿山崇福寺が整備されていった。
その後、この寺は弘済寺とも呼ばれていたようであるが、百有余年の間に衰退。
その衰退していた寺を、永正八年(1511年)に斎藤利匡が整備した。
内側から見た、中門と土塀。
もっといろいろありそうですね、ここは。。
沢山の歴史がある崇徳寺でした。。
コースへ戻ります。。
(*'ω'*)......ん?
金華山にかかっていた霧が晴れていました。
岐阜城が見えましたね^-^
長良橋を渡っていきます。。
金華山麓の長良川鵜飼い観覧船が並んでいます。
雨が止んだので、早速鵜飼い観覧船が出航されていました。。
ゴールの岐阜公園へ続く道です。。
ゴール、キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
(^ー^)お疲れ様でしたぁ~♪
今回のコースは、久しぶりの岐阜の街を歩きました。
天候が良くなくて大変でしたが、信長公岐阜入城、命名450周年。
信長公ゆかりの地をいろりろ巡ることが出来ました。
また深く歴史を知ることが出来て良かったです。
長々とご覧いただき、ありがとうございました。。