実の親父が院政の様な形で、無責任で理不尽な会長職へ。
自分の部下等、人事の面で相当な影響力を残したまま実子を社長へ。
株式上場に向けて、厳しい財務内容の改善等の経営のハードルが上がった訳です。
武田信玄と、伊達輝宗の跡継ぎへの配慮の違い。
輝宗の取った手法は「種宗・晴宗」「晴宗・輝宗自身」と跡継ぎ問題で内紛を起こしてきた親子3代の反省と教訓を踏まえてのものです。
きちんとスタッフを揃えた上で、世代交代を兼ねて伊達政宗に後を任す。
対して武田信玄が取った跡継ぎへの処方は、スタッフは留任、人心の一新を図らず頭の挿げ替えだけの形でトップに武田勝頼を継がせるというものでした。
またそれ以前には、それまで同盟関係にあった今川氏の領地である駿河侵攻を徳川家康と取り決めた際。
強引に自分の長男「義信」を今川方に内通の恐れがあるとして、その傳役であった永禄8年(1565年)に飯富虎昌を切腹させ、永禄10年(1567年)10月には義信も自殺に追いやった。
力で捻じ伏せて跡継ぎを解決しようとしてきたワンマン体質のしわ寄せは、全て勝頼に向かったのでした。
しかし武田勝頼に武人としての才覚が疑わしかったかどうかは、父親の信玄であっても落とせなかった高天神城 を落城させ、織田信長と決戦に誘い出した所までは評価されて良いと思います。
松本引越しセンターの自殺した社長と武田勝頼は、御互いに父親の股肱の臣に囲まれて息苦しい中で高度な目標実現の為に骨を折っていた事に類似性を持っている。
また父親の強引なワンマン体質のしわ寄せも、その息子が身に受けた重さは我々には分からない苦しみがあるのでしょう。
この事から伊達輝宗の様に、社長の交代を人心の一新を図るターニングポイントとして利用して世代交代に努めなかった松本引越しセンターの前社長。
責務を任期中に十分果たしたとは言えないのは確かである。
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