海に出て水平線近くに見る青空と自分の頭のてっぺんに広がる青空とでは当然のことながら「青」の濃淡と深さが違っていて、それは言葉で言い表せないくらい深くてキレイである。
とても抽象的な表現になってしまうが、この青空が現れると何かがボクを呼んでいるというか、外に出て日の光を浴びて「あの青に染まらなければ……」というような衝動に駆られるのだ。
何かとても落ち着かないような気分になり居ても立ってもいられない、焦るような気持ちが沸き上がるのを押さえることが出来なくなる。
海沿いの町に暮らしているから空は広いのだが、これが山間の町で空を見上げても同じ青空のはずで、この時期の青空の「青色」に漂う雰囲気はなんら変わらないことを経験上知っている。
特別に汚れた空気さえなければ海でも山でも高層ビルが林立する都会でも同じ青空が広がっているはずである。
現役時代に会議などで狭い部屋に閉じ込められている時、ふっと目をやった窓の先にこういう青空が広がっているのに気付いたりすると、「なんでこんなところでこんな時間を……」と本当にいたたまれないような気がして、困ったものだった。
このように、嬉しくもあり、焦る気持ちにもさせられる青空というのは夏のこの時期に現れる青空だけである。
したがって今この時期、一瞬たりとも無駄にはできないなぁ――というのが正直な思いなのである。、
ボクの気持ちを掻き乱すこの青空の正体とはいったい何であるのか。
ヒントはある。
この青空は毎年夏の終わりに現れる特徴的な、直感的に「あぁ、秋がもうすぐそばまで来ちゃってるんだなぁ」と感じさせる青空であって、夏大好き人間には正直言って現れてほしくない青空でもある。
終わりかけ…、終焉間近…、終わりの兆し…、etc…。
そういうものが、ひっそり現れるというより、むしろ「……だぞ、いいな! 」と念を押すように現れるのだ。
これは他の季節の変わり目にはないことで、終わってほしくない夏なのに、これが現れるからこそ夏が好き――という、一種逆説的でしかも自虐的な気持ちにさせられるところがたまらない、などとは書きたくないし思いたくもないのだが、案外その辺りが本音に近いのかもしれない。
もうちょっと長い期間夏だっていいじゃんと思うのだが、自然の摂理はボクのエゴなんかまったく相手にしてくれないし、夏の好ましさというのはそれ以外の季節があって初めて際立つものだとも思っているので、まぁ、夏がどれだけ素晴らしいかを再認識するために次の季節が巡ってくるのも致し方ない通過儀礼だな……と割り切るしかないのである。
気がつけばあれほど朝ぼらけの空に響いていたカナカナの鳴き声も遠ざかってしまっている。
今朝もベランダに出て聞き耳を立ててみたが遠くでジージーいうセミのような音がかすかに聞こえていたがヒグラシの声と認識するには至らなかった。
まだ8月も1週間以上残っているのになぁ。
深くて澄み渡った青空.この青い空が現れると居ても立ってもいられなくなる気持ちにさせられる
相模湾には珍しく、水平線が隠れてしまうような高い波が押し寄せていた=いずれも辻堂海岸
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