横須賀線の北鎌倉駅を降りて徒歩3、4分、線路を挟んで円覚寺と向き合う位置にその寺は建つ。
江戸時代、女性の権利が極端に制限されていた時代に唯一、ここに駆け込みさえすれば嫌な夫に連れ戻されることなく保護の手を差し伸べてくれ、縁を切ることができた。
幕府"公認"の「縁切寺」、それが東慶寺である。
今は臨済宗円覚寺派の禅寺で、境内奥の墓地には和辻哲郎、高見順、岩波茂雄ら文化人や作家、実業家など著名な人々が眠っている。
ウメを筆頭に花の寺として知られていて、参道わきのメーンの庭園は自然の野原のような野趣に富んだ佇まいで、その"草むら"とも呼ぶべき空間に、季節季節の野の花がいかにも自然な風情で咲くところが魅力だった。
毎週日曜日に円覚寺で坐禅をした帰り、月に何度かはこの寺に寄り道して庭の風情を楽しみ味わったものだった。
コロナの前までは…
鎌倉の寺の中でも好きな寺の一つだった
ただしコロナの前までは…
それが、コロナ以降、閉じられていた山門が再び開かれると、ある日突然、見出し写真のような看板が掲げられた。
そして山門に通じる階段下には「東慶寺からのお願い」として、■境内はゆっくり静かに歩け■必ず本堂に参拝しろ■境内全域、撮影は禁止―の看板が掲げられている。
曰く「寺院は観光名所ではなく、神社や教会と同じく祈りをささげる空間であり、皆様にとって『心のより所』となるお寺を目指しております。ご協力のほど、お願い申し上げます」と。
コロナが明けてしばらく経ったとき、それまで山門の上で徴収していた300円の拝観料を取る窓口が閉鎖され、「本堂にお参りする際、同額を納めてください」という張り紙に代わった。
なるほどな、と納得して参拝するたびに本堂に上がり300円を払ってきた。
しかし、これでは飽き足らなかったのか、追い打ちをかけるように「境内全域写真撮影禁止」の立て看板が登場する。
そしてたまたま近隣の小学生の遠足に出くわし、児童たちが参道で「だるまさんが転んだ」を始めた。
季節は秋で、色づいたイチョウの葉が傾いてきた日差しに透き通るように光って見える日だった。
すると、土産物を売ったりしている建物から女性が飛び出してきて、引率の若い男の教師を捕まえて「ここは禅のお寺です。遊び場ではありません。静かにさせてください」とこんこんと説教を始めた。
教師は剣幕にびっくりしたのだろう、うなだれてハイハイと聞いていたが、その後生徒たちを集めてそそくさと寺から出て行った。
ソコソコの距離で聞き耳を立てながら事の成り行きを見守っていたボクは正直って呆れた。
ボクも高校生の頃、円覚寺で泊まりこんで10日間、坐禅に打ち込んだことがあるが、確かに、夜中に坐禅するような時は周りが静かなため、横須賀線の踏切の警報音が耳元で聞こえたり、昼間のカラスの鳴き声をうるさく思ったりもした。
しかし、それは坐禅に集中できていない証拠で、集中すれば外部の音など聞こえなくなるし、気になんかならなくなるものなのだ。
そもそも良寛さんは寺を遊び場にする子たちと仲良く遊んだりしているじゃないか。
一茶だって小雀の子たちに「負けるな」といって励ましたりすることはあっても、寺の境内で遊ぶ子らに「静かにしろっ!」なんて言わない。
騒いだって一時のことだろう。
だるまさんが転んだを子供達は延々何時間もやるか?
境内はゆっくり静かに歩け…など、どこの寺に行ったら、大はしゃぎしながら走り回る参拝客に出会えるんだ?
挙句の"べからず看板"の登場。もう何年もこの寺は素通りしてきた。
そんな寺ならば、こちらから縁を切らせてもらう。
それが、昨日久しぶりに門をくぐったのはわが俳句結社の吟行があったためである。
それでひねった吟行句が2つ
にべもなき「撮影禁止」春惜しむ
行く春や「低処高思」の本の人
これ以外の提出句は
新緑に囲まれてなお山桜
満秋を待たずに切られし桜あり
行く春やガタンゴトンと海の際
「低処高思」とは「質素に暮らし、高く思う…つまり、質素な暮らしの中から、高い志とともに人間としてあるべき道を歩む」というような意味合いの四文字熟語で、ワーズワースの詩を元に岩波書店の創業者である岩波茂雄が作り出し、座右の銘としたことを墓の前で思い出し、吟行句に詠み込んでみた。