いよいよ落ち葉の季節である。
放っておけばわが家の庭はカツラ、ハナミズキ、ヤマボウシ、ナンキンハゼなどの落葉樹の葉でうずもれるのである。
私は放っておいて、歩く度にカサコソと音が出るのが好きなのだが、妻は「とんでもない ! 」という。ご近所に迷惑だとも。
だから毎朝、家の前の道路に散った落ち葉をせっせとかき集めている。
そもそも落ち葉は土に還っていくもので、むしろそのほうが自然で、第一、土壌が豊かになるのに…。
それが自然のサイクルと言うものなのである。
もっとも、アスファルトで固められた道路では落ち葉は土に還れないし、道路わきの排水溝の穴をふさいで悪さをしかねないという側面も持つ。
したがって、道路に散った落ち葉を履き集めるのも止むをえないことなのだが、ならば、たき火をさせよ ! 落ち葉焚きをさせておくれよ ! と叫びたい。
何で落ち葉焚きがいけないんだ。どうにも合点がいかない。
そんなことより、車の排ガスの方が毎日毎日、よっぽど大量に放出されているし、身体にだって悪いはずじゃぁないか。
それに比べれば、落ち葉焚きなんぞは晩秋の一時期だけのもので、しかもささやかなものでっせ。
石油製品などを一緒に燃やすと、有害物質などを排出するのだろうが、自然の葉っぱだけ、それも庭に落ちたものだけなら…と言うくらいの寛容さは無いのかね。ったく !
友人が送ってくれた鳴門金時が泣いてらぁ。
木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ 加藤楸邨
自分のことなのか、それとも木の葉に命じているのか。おかしみも感じさせる句である。
よろこべばしきりに落つる木の実かな 富安風生
わが家の庭でたくさんの実が生るなるのはナンキンハゼだけだが、冬の間の貴重な食料なのか、落ちる前に鳥たちに食べ尽くされてしまうのである。
或る闇は蟲の形をして哭けり 河原枇杷男
蟋蟀(コオロギ)が深き地中を覗き込む 山口誓子
秋は得体の知れない闇、心の闇がぽっかり見えてくるものらしい。
月の夜や石に出て鳴くきりぎりす 千代女
石に出て、が印象的だが、もう虫の音も聞かれなくなった。きりぎりすはこの時代はコオロギのこと。
沙魚(ハゼ)釣るや水村山廓酒旗の風 服部嵐雪
居酒屋の旗が風にはためいているところが、実にいい。杜牧の「江南の春」からの引用だが、釣りの後、素通りはできまい。
鮎落ちて美しき世は終わりけり 殿村菟絲子
一気に晩秋。秋の悲しさ。
芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏
高校の教科書に載っていた句で、わが高校時代の友人の1人は酔って俳句の話になると、決まって口から泡を飛ばしてこの句の良さと、実際に見た光景を絶賛してみせるのである。「正しうす」が特に良いんだ、と。耳にタコができてしまった。
冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城
私には同じ教科書に載っていたこの句が忘れられない。3年間、楽しいことは一つもなかった。
横浜イングリッシュガーデンの秋バラも終わりに近づいている
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