1年間、無給で朝と夕方の新聞配達をすれば36日間船に乗って勉強しながらアメリカに連れていく、というのがうたい文句であった。
当時は高度経済成長期に入っていたか入りかけていたため、新聞配達の人手が集まらず、ならば団塊の世代の大学生を使って人を確保しようという知恵者がいたようだ。
1969年8月2日、東京晴海ふ頭を当時の見本市船「さくら丸」を借り切った「第1回朝日洋上大学」は男女400人を乗せ、太平洋を一路ホノルルに向けて出港した。
憧れのハワイ航路ってやつですな。
船はさらにオアフ島からロサンゼルス、サンフランシスコを経て再びキラウエア火山で知られるハワイ島へ。
横浜港に戻ってきたのが9月7日。
ワイキキで泳ぎ、街をぶらつき、ロサンゼルスではディズニーランドに遊び、友人の親せきの家に泊まりに行って、アメリカの豊かな暮らしに触れてみたり。ロサンゼルスからサンフランシスコまでは飛行機移動。初めて空を飛ぶ体験をした。カリフォルニア大学バークレー校の学生寮に泊まってケーブルカーに乗ったり、仲間と街をほっつき歩いた。
桟橋を離れ、監獄島で知られたアルカトラスの脇を通りぬけて金門橋をくぐって太平洋に出るとき霧は晴れていた。遠ざかるアメリカ大陸…
船の中では、一緒に乗り組んだ本物の大学教授や新聞記者たちの授業を受ける。興味深かったのは人類初の月面着陸を取材した記者の講義。
7月20日に月に着陸したアポロ11号の打ち上げから地球帰還まで1か月余りを取材し終えた田中某記者は講義の冒頭、「やっと取材から解放されたと思ったら社命で船に乗れ、という。地球に戻ってきても健康チェックや細菌検査などですぐに解放されない宇宙飛行士の気持ちがよくわかる」などと冗談を言いながら、一部始終を語ってくれたのが今、懐かしい。
この試みを知ったのは新聞折り込みのチラシ。
1968年の事で当時は大学一年。入学してしばらくたったころ、ベトナム戦争反対や学生自治の拡大を求める学生運動の炎が激しくなり、大学側は学校を閉め切ってしまうロックアウトに出た。
ノンセクトラディカルの学生として、夕方から夜に掛けて連日のように行われていた街頭デモにはヘルメットをかぶって出かけていたが、肝心の授業はすべて休講。そんな時に見つけたチラシだったため、心が動いた。
「アメリカかぁ…」
デモで怒りをぶつける対象は大学当局とベトナム戦争を続けるアメリカ合衆国、そして戦争を支援する日本政府。
しかし、「米帝に乗り込んで素顔を見てやろうじゃないの」などと粋がってアメリカ行きに抵抗は感じなかった。
ちなみに米帝ってのはアメリカ帝国主義の事。今の学生にはちんぷんかんぷんでしょうな。
なにせ1ドル360円の時代。外貨持ち出しは500ドルが上限。海外渡航の自由化が始まるずーっと以前の話だから、「外国に行ける」という一事だけで十分魅力的だった。
新聞を毎日毎日配るというのはそう簡単なことでもない。
体調が良くない日もあれば台風や大雪の日もある。今でこそ新聞休刊日は毎月のようにあるが、当時は元日と春分・秋分の日の休日だけ。
250部を配達していたから、時間もたっぷりかかった。
新聞業界に身を置いた人間には隔世の感があるが、当時は求人広告を始めとして広告需要が非常に高く、新聞社は広告掲載のスペースを作り出すため、日曜版、火曜版、木曜版などという別刷り特集を連発していたから1部が倍近い厚さになってしまう。自転車の荷台に背丈を越える高さに新聞を積むから不安定極まりない。一度は降り始めた雪道でスリップして新聞を道路に蒔き散らしてしまい、雪と泥にまみれた新聞を配達するわけにもいかず往生したことを思い出す。
そんな悲哀やほろ苦い体験をたっぷり味わった400人は何事もなかったかのように船に乗り込んだ。
それから45年。日比谷のプレスセンタービルのレストランで開いた同窓会の参加者は400人中80人弱。まったく違った人生を歩み、ほとんどは社会の第一線から退いている。風貌に風雪が刻み込まれていて、面影だけが頼りなのも当然である。
“共通言語”は1年間新聞配達を続け通したこと、その一点。たった一つの体験、それも個別の体験が歳月をものともせずに参加者を結び付ける。不思議なもんだなぁ、とつくづく実感させられた。
貴重な体験をした。次は5年後だという。
全員で記念撮影。梁の上によじ登ったカメラ係が撮影した。スーパームーンの日だったようだが見ていない
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