平方録

大仏切通し

「鎌倉七口」と云って、南を海に向かって開き、残り三方を山に囲まれた天然の要害の地にある鎌倉は、外からは七つの口のいずれかを通らなければ中に入れなかった。
西洋の城郭都市に置き換えるなら、七口は城門に該当する。
海から眺めたとして、西から時計回りに「極楽寺坂切通し」「大仏切通し」「化粧坂」「亀ヶ谷坂」「巨福呂坂」「朝比奈切通し」「名越切通し」である。

七口の中で往時をしのばせているのは大仏切通し、朝比奈切通し、名越切通しの3つである。
極楽寺や亀ヶ谷、巨福呂は自動車道路になってしまっていて、残っているのは名前だけ。化粧坂には面影が残っているものの、往時はもっと細かったはずである。

ただ、七口と称されるのは鎌倉が観光地化した江戸時代以降のようで、鎌倉幕府の公式文書である吾妻鏡には極楽寺坂切通しと大仏切通しの名前は登場しないという。また、七口に数えていない小坪坂や稲村路の名前が出てくるそうだ。

肝心の吾妻鏡に名前がなかったとすると、一体いつごろできたものなのか…
大仏切通しについては昭和52年に国の史跡に指定されていて、鎌倉市教育委員会の手で現地に案内板が建てられている。
それによると、「梶原・山崎を経て武蔵・京都方面へ通じる道路です。記録がないため正確な開削時期は不明ですが、北側にある北条氏常盤亭の存在や、朝夷奈切通や巨福呂坂の整備時期の関係から、仁治2年(1241年)から建長2年(1250年)ごろに整備されたと考えられています」と記述されている。

そして「江戸時代に経路が変更され、現在の県道鎌倉藤沢線ができたため大規模な破壊を免れ、付近に造られた平場や、ここに開口する『やぐら』と呼ばれる岩窟、そして切岸などとともに、かつての鎌倉の幹線道路のあり方を、今によく伝えています」とある。

1240年代というのは第3代執権北条泰時と3代経時への変わり目にあったっていて、手元の歴史年表によると、世界史的にはモンゴル軍がポーランドやハンガリーに攻め込む一方、ドイツではハンザ同盟が始まったとされる時期である。

節分の日の2月3日に長谷寺の帰り、気が向いてこの切通しがどうなっているのか、覗いてみる気になった。
一時荒れ放題になっていて、足を滑らせると下の県道に真っ逆さまに落ちかねないような所もあり、その後しばらく閉鎖されていたのだが、どうやら通れそうである。
いつから通れるようになったのかは知らないが、大仏坂トンネル脇から階段を登ったところのハイキングコースとの分岐点の木製の階段が比較的新しかったので、せいぜい2、3年前のことだろう。
大方、世界遺産登録などと言う余計なことに力を入れている一環で整備したものであろう。

ここを通るのは15年かそれ以上ぶり、ということになる。
長い間人を通さなかったこともあってか、姿かたちはよく残されている。
それにしても、両側が切り立った崖でしかもその上には樹木がうっそうと生い茂り、急な坂道に加えて随所に大きな岩が足許を邪魔している。
荷車は通ることは不可能で、人がすれ違うのがやっとの幅しかない。険しい道である。
これでは外から大軍勢で攻め入ることは不可能である。

世界遺産にでも登録されて、年間万を超すような人がこの歴史的な切通しを歩きまわったらどうなりそうか、想像がつかないのだろうか。
リストに載せるより、市域全体の景観を守り、観光に訪れるたくさんの人々が快適に楽しめるような方策を練り、整えていくことがまず先だと思うのだが。
観光シーズンの土日祝日の車の乗り入れ禁止など、やるべきことはいくらでもある。














険しい道が続く大仏切通し
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