録画しておいた「分水嶺」のテレビ番組を見ていたら懐かしい場所が出てきた。
2年前の19年3月に山形の友人に「面白いところがあるよ」と連れていかれた場所である。
そこは周囲を山に囲まれた平らな土地で、春になれば畑や水田が広がるのどかな光景が広がるはずだが、3月とは言え雪国の風は冷たく「何を酔狂な」と心の底ではぼやきながら後をついていったのだった。
そして「ココだよ」と指さされたのが小さな水の流れが右と左に分かれる分岐点のような、どこと言って特段代わり映えのするような光景とも思えなかった。
「えっ ! なにこれ ?」
「分水嶺さ」
「んっ ?! 」
これには意表を突かれた。
分水嶺のイメージは漢字が示すとおり、高い峰々の背骨のような場所で、そこに降った水が背骨を境にどちらかに流れ落ちていく図式である。
それがこんなまっ平らな、しかも標高がたった338mしかない場所に存在するとは…
まっ平らな場所の分水嶺だから流れはとても緩やかで、水の流れをじっと見ていると右に行こうか左に行こうか迷っている風でもあり(んなわけないか)、最初は右の日本海方面と決めたものの「やっぱり左の太平洋にしよっ」と、‶翻意〟可能なくらいのんびりとした場所に見えた。
すぐ近く、歩いて5分もかからない場所には、あの松尾芭蕉が『蚤虱馬の尿する枕もと』を詠んだ「封人の家」が今も残されている。
ただ、この分水嶺が発見されたのはつい最近になってのことで、芭蕉の時代にその存在が明らかになっていれば、もう1句名作が残されたことだろうに惜しいことをした。
分水嶺はこんな場所 ここで水たちは水杯を交わして「じゃぁ~ねぇ~」と別れていく
流れがあるんだか無いんだか…
上方の細い流れがこの場所で左(最上川経由日本海)と右(旧北上川経由太平洋)に分かれるのだが、中央に置いてある石の辺りで「さてどちらに行こうか」とウロウロする水も(これは少しホント)
山形県最上町にある境田の分水嶺の水はとても澄んでおりました
陸羽東線堺田駅がすぐ近くにある
駅のホームに建てられた案内板
芭蕉が「奥の細道」で書き残した尿前の関の封人の家は往時のままだそうだ 残念ながら冬の期間は閉鎖されている
この地図を見るには頭を使わなくてはいけない 地図は北を上にしてくれなきゃ…