夏までに盛んに花をつけていた植物たちも、真夏の暑さで一休みして体力を取り戻したのか、再び目を楽しませてくれている。
ただ日の光と同様、どこか燃え上がるような力強さとは一線を画しているのも事実。
春から初夏にかけての万物すべてが燃え立つような生命の息吹とは違うのである。
日ごとに弱々しくなっていく陽の光。しかも頭のてっぺんから射抜かれるような陽の差し込み方に比べて、この時期は顔を覗き込むような位置から光を送り込んでくる。
陽が高く昇っているうちは、風さえなければ汗ばむ陽気になることも珍しくない。短パン姿で十分である。それが午後の3時を過ぎれば「えっ!」と驚くほど陽の光は弱々しくなってしまう。
気温もぐんぐん下がり始める。秋の日はつるべ落としというが、秋の気温もまた同様である。
夕方、短パンから長ズボンに履き替えると、心なしか動作はもっさりしてくるし、なにより気分が重苦しくなってしまう。
「もののあわれ」「無常感」といったものが辺りに漂うのである。
しみじみした情趣や無常感が嫌いなわけではない。
古来から日本の秋の専売特許のようなもので、すぐれた文学作品や美術品が生み出されてきたのも、こうした情趣や感慨の賜物といえる。
とはいえ、距離をおきたい気持ちが勝る。
どういうことなのか。
良く分からない。
何となく思い当たるのは、しみじみした情趣や無常観といったものは、まだ自分自身の身近になくてもいい。文学作品や美術品の中に閉じこもっていてくれれば、こちらから覗きに行くのであって、そういうものの中にまだ自身を置いておきたくない、そういう必要もない、ということのような気がする。
今はまだ烈日に心を惹かれるのである。
白髪三千丈にでもなれば「ふぉっふぉっふぉっ」と笑いながら無常を口にするのもいいかもしれない。
茶色い花を咲かせる「空蝉」
ホトトギス
春から初夏にかけて咲くが、今年は秋にも花をつけたルリタマアザミ
フウロソウ
サルビア2種とフウロソウ
ヒメツルソバ
ブルーセージ
エキナセア・グリーンジェル
名前は忘れた
ケイトウ・ピア
取り忘れたアケビの身。中身はすでに無く、皮がミイラのようになっていた
オキナワスズメウリ。これから赤くなる
ローズヒップとオキナワスズメウリ
ダリア 蕾がたくさんついていてこれからが楽しみ
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