久しぶりに横田南嶺管長の「伝心法要」の提唱を聞いた。
先頭を切って入ったわけでもないのに、先に入った人たちが前の座をあけて座ったので、お坊さんに「前から詰めてください」と言われ、仕方なく一番前に座らせられるはめになってしまった。
老師の目の前であり、もぞもぞ足を組み替えるのもためらわれて、それでも組み替えたが中途半端だったと見えて痛かった。だから提唱の後半は上の空でじっくり聞くどころではなかった。コリゴリである。次回以降は絶対に一番前には座るまい。
何たって修行ができちゃあいないんだから…
1、2、3日の連休は恒例の宝物の風入が行われている。提唱の中に凡夫という言葉が出てきて「今、坐禅をしている皆さんのような方々は凡夫ではないが、風入を見に来るような人たちは凡夫ですナ」などと冗談を言い、「寺の維持費もかかることだし、帰りがけに覗いてみてください」と笑わせるので、その言に従って500円払って見てきた。
円覚寺を開いた中国僧・仏光国師(無学祖元)の日用品の数々や五百羅漢図をはじめとする仏教画などが展示されていて、見ごたえがあった。
丸山応挙の「虎図」は猫のようであったが、鎌倉幕府の第8代執権にして開基・北条時宗の字の上手さに感心した。さすがに蒙古軍に打ち勝った総大将だけのことはある。円覚寺が創建された翌年の1283年7月の日付で、将軍家の御願寺として寺格を上げ、尾張国富田庄ほかの寺領を確定して寺用に供給しようと、将軍家惟康親王に請願した文書。
円覚寺は鎮護国家および仏法紹隆の浄刹として永遠に栄えるであろう、と述べている。
古刹というところは鷹揚なもんである。なにせ国の重要文化財に指定されているような貴重な品々が目と鼻の先、手の届くところに展示されていても、雲水がところどころで座禅を組んで座っているだけで、監視というのには程遠い。信用してるんですナ。
第3代将軍の実朝が宋の能仁寺から譲ってもらったという釈迦の歯(仏舎利)を納めている鎌倉唯一の国宝建造物・舎利殿もすぐ近くまで入れるようにされていて、こちらも覗いてみた。同じチケットで入れるのだ。元は西御門にあった尼寺の太平寺(廃寺)の仏殿だが、火災で焼失した後、1573年ころ移築されたという。「土間仏堂」といって床が土間のままで、鎌倉時代に宋様式の禅宗様として主流になったんだそうだ。
ただし鎌倉に現存するのは舎利殿のほか、英勝寺仏殿、建長寺仏殿、建長寺法堂の4棟のみ。舎利殿以外は江戸時代初期や幕末に建てられているため、国宝指定は舎利殿だけである。
流れるような屋根の曲線とぴんと空に向かって跳ねあがっている四隅の形が美しく、けして大きくはないが、何とも言えないリズムを感じさせる建物である。
普段は近づけない国宝・舎利殿。この奥に開山・無学祖元を祀った開山堂があるが、まったく見えない
午前中から山門をくぐるためのチケットを買う観光客で、長い行列ができていた
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