夏の暑さをたっぷり楽しみ、というか“わが世の夏”を満喫したので約束通り、昨日、横浜イングリッシュガーデンに出かけて草を抜いてきた。
ぐずぐずした天気で時折小雨もぱらついたが、一人で黙々と土の匂いを嗅ぎながら、バラのとげに引っ掛かりながら4時間ほどはいつくばってきた。
自宅庭でもごくたまに草取りをするが、こんな長い時間はやらない。
この日はガーデナーが別の仕事に取り掛かっていて、お客さんはポツリポツリと姿を見せるだけ。
広い庭にたった一人。
しばらくすると草を抜いている間、何も考えていないことに気付いた。
大変だな、とか、もうやめよう、とか、疲れた、とか、あのバカ者め、とか、あれが食べたい、とか。
そんなことはまったく頭に浮かばず、ただひたすら草を抜く。自動的に、というか、機械になったように、というか…
単なる思考停止なのか。ただひたすら草を抜くことだけに集中する。そんな自分の姿に気づく。
これを無心の境地と言うのか、とフト思う。
円覚寺の座禅会で横田南嶺管長がしきりに口にする「無」とはこのことか、と。
何物にもとらわれず、ただひたすら、「していること」に集中しなさい。「集中している」ということも忘れるのです。
いや、そんなに簡単に辿りつくものなのか?
座禅をしていると、足が痛くなってきた、とか、背筋が凝ってきた、とか、どのくらいの時間がたったんだろう、とか、雨脚が激しくなってきたな、とか。集中できているなんてことは、ついぞあり得ない。
座禅の真理、真髄に、そんな簡単に近づけるんだろうか? そんなわけがない。
しかし、実際には何も考えごとはしていないし、ひたすら黙々と草を抜くだけ、である。いや、何も考えていない、と思い込んでいるだけか。
無に近い、一種なのかもしれないけど、違うんだろうね。たぶん。
でも、何も考えていないことに気がつくという、そのこと自体がすでに「無」じゃあないよなぁ。明らかに矛盾してるよなぁ。
不思議な体験をした。
いずれ答えが出るだろう。
時間はたっぷりある。楽しみだ。

草取りに取り掛かる前の状態

草を抜き終え地面が見えるようになった

夏を越え、ホワイトガーデンの白いバラがこんなに花をつけている。でも、秋バラのシーズンにきれいに咲かせるため、10日には切り戻してしまう