「(略)八時間のたたかいのすえ、午後4時ごろ、東軍の勝利になった。
おわると、細雨が降ってきた。その夜、家康自身は戦場で仮泊したが、直参の井伊直政(1561~1602)には休息を許さず、近江への侵攻を命じた、近江を制しなければ戦勝の力学は安定しない。さらに具体的には近江における石田三成の居城佐和山城(今の彦根の東北)を陥とすことであった。家康は直政に旧豊臣系諸将を付し、人数15000をあたえた。(略)」
「(略)長じて直政は、家康の内々の相談相手になった。直政は思慮ぶかく、四方に心をくばって、しかも口重の人だった。家康も時に思いちがいをした。そういう場合、『直政が余人のいないときに意見をしてくれる』などと、人を月旦することのない家康が、めずらしく直政の人物評を秀忠夫人への手紙のなかでふれたりしている。
直政は武勇の人でもあった。
当時の軍事用語に『突っかかり』ということばがあった。両軍対峙しているときに、人馬をしずめることなくやみくもに敵に突撃してゆく武将がいる。そういう部隊行動や、そういうことをする事を『突っかかり』とよび、家康自身、かれの野戦方式はこの突っかかりであった。直政は平素の慎重さに似ず、戦場ではつねに『突っかかり』をなし、しかも生涯、16度の合戦に一度も負けを取ったことがなかった。
家康は、そういう直政をいよいよ愛した。」
『街道をゆく』近江散歩編で司馬遼太郎は井伊直政をこう記述している。
家康が天下を取れたのも、ひょっとするとこの男の力に寄るところが大きかったのではないかと思わせるくらい、なかなか魅力的な人物のようである。
今回の旅で彦根に寄ったのは山の神のリクエストだった。
多分、大河ドラマの影響なのだろうと思う。
ボクはもう50年も前に来たことがあるが、すっかり忘れていたから初めてのようなものだ。
日本には創建当時からの天守が残る城が12城あるそうで、そのうち姫路城、犬山城、松本城、松江城と並んで彦根城は「国宝5城」と呼ばれる国宝に指定された城である。
姫路城と松本城はまだ行ったことがないが、犬山城と松江城に比べればかなり立派な城で、さすがは家康一の家来だけのことはあるという印象である。
家康が戦後、東海道と中山道が交わるこの近江の要衝を直政に与え、西方へのにらみとしたのは当然だった。
関ヶ原の戦いで直政は鉄砲玉2発を浴び、それでも休むことなく近江へと侵攻するのだが、2年後に傷口が開きそれが元でこの世を去る。
従って、彦根にある城は息子の直継の代に完成したものだが、直政の意思が色濃く反映された城と言えるのではないか。
彦根のすぐ南の安土にあった織田信長の安土城が信長の死後すぐに姿を消す一方で、戦国の世が終わり、「日本史上、もっとも安定した統一時代」(司馬)の幕開けに一役買った直政一族の居城が現存しているというあたりが歴史の面白さ、不思議さかもしれない。
美しい
佐和口から入る
急な階段が続く
天秤櫓
縁主格の前の広場にひこにゃんがいた♪
小振りながら美しい天守は豊臣秀吉が築いた大津城から移築したものだそうだ
どこの城でも同じだが、階段というより梯子
天守からは町と琵琶湖が一望できる
2025年の滋賀国体に向けて競技施設の整備が進められていた
黒門山道というところから下に降りると守りの固そうな石垣の連なりが目に入る
玄宮園
名古屋に停車した新幹線の車内から月が見えた