谷尾英雄の○○日記!

60代の鳥取の男性です。なかなか体験できないことを、自分が経験したので、多くの人に知ってもらおうとブログをはじめました。

68 「子どものころ 9」

2013-05-29 06:22:53 | 日記
コマ遊びはよくやった。

コマを回すには なかなか倒れにくい 強いコマを作らないといけないので

家の前にあった 鳥取保健所のコンクリートで芯棒を砥いで 強く した。




当時 私の家の前は バスが通っていた。

コンクリートは、保健所ぐらいしか近くにはなかった。

それで、保健所なのです。ここでも、よく遊びました。



以前は 外で遊ぶことがほとんどだった。

雨が降ると外で遊べない。


そこで室内で遊ぶのだが、室内といっても広いところがない・

隣が畳屋で 畳を作るところが けっこう広いので よく遊んだ。

しかし、コマを回すと コマは 芯棒があるので 土がほれて穴があく。

仕事の邪魔をしながらでもよく遊んだ。

ウチの兄弟が 4人、トナリが 7人兄弟・・・。





67 「こどものころ 8」 

2013-05-23 05:55:17 | 日記


缶蹴りは 背の高い缶はよく飛んだり 転んだりするので面白かった。
 
「 鬼 」が拾ってきて 元の場所に戻すまでに 隠れるので 背の高いものが良かった。



缶詰の缶のように 低いものは 紐を通して 下駄のようにして 

鬼ごっこをして遊んだものである。

このころの 「缶」の色は、なんと カーキ色でした。

『 進駐軍 』のモノだったと思う。




66 「こどものころ 7」 

2013-05-23 05:55:02 | 日記
教科書無償制度


私が小学校の時は、新しい学年になると 体育館に来ている

本屋さんから教科者を買った。

また、使えるものは兄弟や近所の人から 使った古い教科書をもらった。



私たちの世代が 中学校を卒業してから 


順次 入学してくる人たちが

 
教科書が無償で 配布されるようになった。




昭和38年度にまず小学校(当時の盲学校,聾学校及び養護学校の小学部を含む。)の

第1学年の児童を対象として実施され,以後,学年進行方式によって毎年拡大し,

昭和44年度において義務教育諸学校の全児童生徒がその範囲に含まれ,

全学年の児童生徒に対する無償給与が完成し,現在に至っています。


入学式又は始業式の当日等に校長が教科書無償給与の趣旨を説明して

直接児童生徒に給与することが適切です。


また,昭和41年度から,新たに小学校等に入学する児童に対しては,

入学を祝い,前期用教科書は紙袋に入れて給与することとなっています。


この祝いの袋に 一人ひとりの名前を書くのですが

間違えたりすると 大変です。 

あとの事務上の手続きが・・・・・。







65 「子どものころ 6」  

2013-05-23 05:53:57 | 日記





小学校時代の教室は音楽室が 2つに分けてあって

ベニヤ板で仕切りがしてあった。



教室の机は 二人の机がくっついていて

その机が教室に ぎっしりつまっていて 

教師用の机はなく 子どもの机の洪水である。



前後の人とは 椅子を下げることはできるくらいの空間はあった。

しかし 左右の人との空間はなく  

前からしか入れない教室なので ハダシで机の上に乗って

自分の席に着いたり 遊びに出ていたりした。



また この机は 蓋(ふた)の上に乗ると へっこんで

足を突っ込んでしまう 机のそでにのるのが コツだった。


とにかく 遊ぶことばかり 考えていた  


どうしたら 速く遊びに出られるか どこの場所をとるか


そんなことを考えて 過ごしていた。


これをやらないと 休憩時間の遊び場所がなくなってしまう。


毎日、場所取りに必死だった。




64  「息を引き取る 2」

2013-05-23 05:51:00 | 日記


月曜日に検査がありましたが、すぐに結果はわからない。、

火曜日の昼、私は勤め先から病院に向かった、

お昼を食べていると、担当の医師が「話」があるとのことだった。

話を聞いてみると、

「いまのままだと、あと1週間しか持たない」

「延命治療しても、そんなに長くはもたない」

「どうするか、いま返事がほしい」

ということだった。

『チューブ人間の状態になって 苦しんでまで、生きたくない』と

以前から。義父と相談していたので、結論を出した。

しかし、最期の時は、自宅で過ごさせたいことも話した。


水擁日に、ストレッチャーに乗せ、寝たままで乗れるタクシーで自宅に向かった。

帰り道に、今は「郡家」「八頭高」「船岡」「橋本」など道案内をすると、

目を開けていた。


病院から退院するときは、看護師さんが手伝っていたので、

車には簡単に乗れたのですが、降ろす時には、大変な重さだった。

妻と酸素の業者とイトコ(2人)の4人でなんとかベッドまで運ぶことができた。


金曜日の夕方から、私が呼吸の間隔を数えながら横にいた時です。

呼吸の間隔が乱れ、最後は大きく息を吸って

『息を引き取りました』


『息を引き取る』ということの意味を、本当に実感した。


自宅で 自分のベッドで そして 家族に 見守られながら・・・


3年前の 5月21日 午後7時31分  天国 へ

72歳まで働き  89歳でした。 長い間 、ご苦労様でした。

私たち 夫婦や 子どもたちがいるのも 義父のおかげです。