アメリカTVドラマ『プリズンブレイク』は、面白くて、全シリーズを見てしまった。
主人公のウェントワース・ミラー の演技が、クールでかっこ良かった。
そのウェントワース・ミラー が、このようなスピーチをしていた。
心を打つ内容だった。
二度も聴いてしまった。
私が一番好きな『プリズンブレイク シーズン1』
2020/07/26 インタビュー日本語訳
〈カミングアウトをするまでの葛藤。たった一人にでも伝わればいい〉 - ウェントワース・ミラー( Wentworth Miller)
ウェントワース・ミラーが、『プリズンブレイク』の続編を降板したことも、その理由もニュースで知っていたけれど、このようなスピーチをしていたんですね。
英語のスピーチ画像。
Wentworth Miller Talks About Coming Out, Overcoming Struggles at HRC Dinner
<追記>
最近の日本のTVドラマ、映画、文学、コミックなどでは、ゲイやBLがテーマになることが増えている。
それだけでも意味があるのだろうと思う。
先頃、上映された『ミッドナイトスワン』はトランスジェンダーの問題を扱っており、私個人としては、そこじゃないんじゃないか?と思うところは多少あったが、ある意味、真面目に向き合っていた映画作品ではあったかと思う。
海外に於いても、セクシャリティに関わる映画を観ると、その国家で法制として認められいるにも関わらず、本人のセクシャリティのアイデンティティの問題、あるいは職業として積み重ねてキャリアに於ける影響など、個に焦点を当てたとき、現実には、社会生活、日常生活にやはり影響があり、決してオープンな状況ではないことも知る。
例えば、2000年当初の早くから同性婚や同性婚の養子縁組を法制化したヨーロッパの国々にあってもなお、同姓愛をテーマとした映画表現では、当事者のアイデンティティの苦悩が、深刻に描写されている。
ここの部分、もっと、掘り下げて行くことが、重要だろうと思う。
カナダのグザィエ・ドランは自らゲイであることを公表し、かれの映画のテーマの多くはセクシャリティのアイデンティティを扱っている。
私は、グザィエ・ドランだからこそ、切り込んで描くける世界観もあることは確かだと思う。
この度、ウェントワース・ミラーも、『プリズンブレイク』の降板理由では、ストレート(異性間恋愛)を描ける俳優は沢山いるので、敢えて自分が演じななくても良いと考えたと発言している。
ウェントワース・ミラーの言葉が、とっても心に入って来る。
やはりグザヴィエ・ドランだからこそ描ける映画は、或いは演じ、その映画によって、同姓愛者である自己へのアイデンティティに悩む人の一人にでも伝わって行くのかも知れないし、その映画を観て、同性愛者ではない人も、彼らがこの現代で生きることの状況を識ることの一助となるのだと思う。
<追記2>
よく〈共感〉という言葉を、映画や文学を味わったあとに、使われるが、最近はその〈共感〉が、果たして、どれほどのもので、〈共感〉と使用されているか、自分自身の書いてきたレビューにも疑いを持っている。
そのことを、まざまざと知らされたのが、伊藤暢彦氏の20年ほど前に上梓された『ただいま奇跡のまっさいちゅう』(小学館)を、最近、たまたま読んだ時だった。
この書は、断っておくが、ゲイを扱っているのでは無い。
サブタイトルにあるように“ある障害児の18年6か月”の記録である。
実を言うと、己の心境と向き合うと、感想を書くことさえ慎重になってしまう本だった。
共感とは、なんだろう、と考えた。
「共感」と言う言葉を、レビューの定型句のように安易に使うのは、しちゃいけないなぁと、
心にズドンと感じた書であった。