金田博美

「祖父に逢いに行く」フィリピン慰霊巡拝団に参加して
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2020年5月16日山口新聞【東流西流】 ルソン島サゲガラオとバシー海峡で現地追悼式

2020-05-22 11:28:09 | Weblog
2020年2月12日から19日
フィリピン慰霊巡拝団に参加して

フィリピン3日目はツゲガラオとバシー海峡で慰霊を行う。マニラ市街の建物や乗り物は暖色系で明るく彩られ、森の緑と混ざり合い、上空には街を包み込むように真っ白な入道雲が沸き立っている。その熱帯の日差しの中を空港へ移動し、ルソン島北部のツゲガラオへ飛ぶ。

飛行機の窓から見ると、全てを覆いつくすかのように広がる熱帯のジャングルの木々は無念の死を遂げた多くの人々が両手を上げて叫んでいるように感じる。
ツゲガラオ空港着。空港のすぐ傍まで建っている民家と滑走路とを隔てる柵が低い。空港ではドゥテルテ大統領のポスターが笑顔で迎えてくれ、多くの乗り合いバスが出てくる人を探している。

私達のバスはしばらく走り、幹線道路山側の野原にてツゲガラオ周辺で亡くなった戦没者追悼式を行う。紐でつながれた水牛はのんびり草を食(は)んで、こちらを眺めている。

今日2回目の追悼式となるバシー海峡を望むアパリ海岸へ。
バシー海峡は台湾とフィリピンの間に位置しており、南方に向う船舶が敵潜水艦の魚雷に撃沈させられ、多くの犠牲者を出した海峡である。バシー海峡の方向を方位磁石で確かめ、祭壇を作り追悼式を行うが海風が強く難儀する。花とお酒を海へ手向ける。
この海は故国へと続いている。



2020年5月9日山口新聞【東流西流】フィリピン慰霊巡拝に出発

2020-05-22 11:24:53 | Weblog
フィリピン慰霊巡拝団に参加して
慰霊巡拝団のしおりには「日本国政府派遣の慰霊巡拝団は、先の大戦において戦域となった全ての地域戦没者の慰霊を行うことを目的としており、戦没された全ての遺族の代表として慰霊を行う責務があることを理解願う」とある。
私が行くフィリピンには想像を絶する悲惨な戦況の中で無念の死を遂げ、未だ故郷へ帰れない多くの魂が眠っていると思うと改めて気が引き締まる。
2月12日夕刻、結団式で参加者の顔合わせと最終説明を受け、13日早朝、成田空港からニイノ・アキノ国際空港へ飛び立つ。
この日から最終日まで参加者は毎朝、体温と血圧を測定する。私の血圧は若干高めだが、逸る気持ちのせいか。
機上、眼下の積乱雲の間に輝く美しい洋上に、今も領海について国家間の駆け引きが存在している事を残念に思う。
昼過ぎ、空港に到着。エアコンの効いている空港からバスに乗る間にも日本との気温差25度以上の熱風と、刺すような強い日差しを感じる。
移動してマニラ湾を望む。70年以上前、制海権、制空権を奪われ潜水艦や戦闘機に攻撃され、多くの日本人がこの地を踏むことなく海に消えていく中、祖父には無事に上陸できた事への安堵はあったと思う。
そして当時のマニラは祖父の目にどう映ったのだろうかと思いをはせる。

2020年5月2日山口新聞【東流西流】間隙を縫ってのフィリピン慰霊巡拝となる

2020-05-22 11:19:08 | Weblog
会社を60歳で退職し、家の農業を継いで3年目。最近は新玉ねぎとタケノコを近くの産直市場に出荷しています。
今年2月に厚労省主催のフィリピン慰霊巡拝団の一員として、祖父が戦死したフィリピン・ルソン島での現地追悼式に参加しました。

実施期間は2月12日から8日間。全国から募った慰霊巡拝の参加者は、戦没地のルソン島西部とミンダナオ島、レイテ島とパナイ島、私が参加したルソン島北東部の3班に分かれました。
各班に厚労省職員2人と添乗員、看護師が付き、現地の通訳兼ガイドと現地サポート員2人体制で行動します。
出発の1カ月前にはルソン島のタール火山の噴火で噴煙は1500mにも達しマニラ都市部でも降灰があり、私たちの利用するニイノ・アキノ国際空港も1時閉鎖されました。
また新型コロナウイルス感染は徐々に全世界に拡大しており、2月にはクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客から陽性反応が出て集団感染が懸念される中での出発でした。

私たちが慰霊巡拝を終えて帰国後の3月末ごろから、フィリピンへの入国も査証免除特権を停止され入国が実質不可となり、今も全く先の見通せない状況が続いています。間隙を縫ってのフィリピン慰霊巡拝となりました。