異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第2回。今回は言葉の壁を越えた百合チックwな友情をクローズアップ。
前回説明した通り、勝海舟の援助で辛うじて父の職を確保したホイットニー家。
ちなみに海舟はクララ達の来日3年前の明治5年に静岡から帰京し、氷川町四番地の通称「氷川屋敷」に住むようになっていました(ちなみにクララ一家来日当時は53歳とまだまだ若い年齢)。この氷川屋敷に通うようになったクララは勝家の人々と急速に親しくなっていきます。
海舟の妻たみ、既に他家に嫁に行っていた長女ゆめ、次女孝子、アナポリス海軍兵学校に留学していた小鹿などですが、とりわけ彼女の人生に大きく関わってくるのは三女で、クララと同い年であり、無二の親友となる逸子、そして海舟の三男で四歳年下の梅太郎です。但しこの梅太郎、正妻たみの子ではなく、海舟の長崎時代の愛人であり、早逝した「くま」との子供であり、クララが梅太郎から直接この事実を知らされるのは、ずっと後のことです。
クララは初対面の時から逸子には好意を持ったようで日記には次のように記しています。
『末のお嬢さん(逸子)は本当に綺麗で、18歳と云うがとても若く見える(注.数え年なので実はクララと同じ16歳な上に誕生日も近いと判明)。真っ黒な眼、やや上を向いた鼻、半月形の眉、赤い唇、真珠のような歯、そして薔薇色の丸顔にお化粧をしていた』
あっという間に親友となったクララと逸子ですが、二人が初めて出会った頃から既に逸子には複数の縁談の話(主に旧大名家から)が舞い込んでいたのですがクララはそれに対してこんなことを書いています。
『雄々しい侍が誰も、お逸と結婚しに現れることのないように望むのみである』
『結婚などはしていけない! もしできたらアメリカに連れて帰りたい!』
この逸子自身、随分お転婆な娘さんだったらしく「屋敷内で海舟の馬に乗って庭を散歩していたら突然馬が疾走を始め、通りにまで出て暴走」なんてエピソードもあったり、一緒にカップケーキ作りをしていて、逸子が指についたバターを拭き取りながら「カーッ」と叫んだりとか、汽車内で喫煙する人々を見つつ「お逸に煙草を吸うかと聞くと、お逸は『まだ』と答えた」なんて切り返しがあったりと、日記には二人の親密振りが綴られています。
ちなみに二人とも当初は互いの言葉を理解しているわけではないので、女の子の友情と云うのは言葉の壁を簡単に越えるんだな、とそういう意味でも読んでいて微笑ましく思えたりします。
さて、ここで今回のクエスチョン。クララの日記を読む限り、クララと逸子が初めて出会ったと思われるのは明治8年のクリスマスイブ。
木挽町のクララの自宅で行われたパーティーであり、このパーティーには福沢諭吉や大鳥圭介、箕作秋坪なども参加し、個人宅に日本人・外国人を問わず招いて開かれた、当時の日本としては非常に珍しいクリスマスパーティーだということで、新聞にも取り上げられています。
この際、クララは勝家のお嬢さん(次女の孝子と逸子)達に「kittens(子猫)」と名付けて興に入っていますが、さて、クララは何故この愛称を思いついたのでしょう?
ヒントとしては、落語的と云うか、駄洒落と云うべきか、そんな感じです(笑)。