異文化交流クイズ「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第4回は、慶喜の跡を継いだ徳川16代宗家、徳川家達とクララ嬢の奇妙な縁を。
前回の問題でクララが明治10年の正月に勝家を訪れた際について書きましたが、それを遡ること一週間前の12月25日。ホイットニー家で開かれたクリスマスパーティーには、前年の海舟、福沢諭吉、大鳥圭介らを凌ぐ驚くべき人物がゲストとしてやってきます。
彼の名前は徳川家達。慶喜に代わり、明治の世となってから第16代徳川宗家を継いだ人物であり、後に貴族院議長も勤め、日本史の教科書にもワシントン軍縮会議の全権代表として名前が記されています。
もっとも慶喜の跡継ぎと云っても慶喜の実子ではなく、元は御三卿田安家当主であり、しかも宗家を継いだ明治維新時にはまだ6歳の時。しかもその直後に慶喜と同様に静岡に送られ、しかし廃藩置県のあおりで再び東京へと戻っていきます。
ですのでクララの屋敷にやってきた頃は、満の年齢で云えば弱冠13歳。クララの日記によればこんな感じの登場でした。
『それから今宵の花形、つまり徳川家の若殿が三人の従者を連れて、自家用人力車で静かに入ってこられた。14か15歳だが、非常に威厳のある風采の方で、とても色が黒く、濃い赤みがかった鷲鼻、細い眼、小さい弓形の口をしておられる。背と胸に、聖なる徳川家の紋がついていた。アメリカでは大君と呼ばれている方だ』
勿論他の日本人達は興味はあるので隠れ見たり畏れ多くてなかなかうち解けられないわけですが、その点クララは全く物怖じしません。
『私は将軍と握手をし、脇に座って絵をお見せしたが、畏敬の念など一つも起きなかった。事実、この若殿を護ってあげているような気さえした!』と、殆ど弟扱い。
家達自身もそんなクララが気に入ったのか、翌明治10年2月17日、クララとその母親を赤坂の屋敷に招くことになります。
巷間では明治に入ってすぐの徳川家はかなり困窮していたように描かれていますが、流石は腐っても徳川宗家。長い塀にどっしりした門構え、五十段ばかりの石段、物々しい護衛、立派な部屋。床に敷かれたブリュッセル絨毯。部屋の隅々に置かれた立派な屏風と、最低限の格式は備えていたようです。
しかも屋敷裏には何故かクローケーの競技場があったりしました。クローケーというのはイギリス発祥のスポーツで、ルールとしては「芝生の上で木槌で木製のボールを打ち、鉄の門を通し、相手のボールを追いのけながらゴールのポールにあてる」というもの。一番イメージしやすく云えば、ゲートボールの原型ですね(ゲートボールは日本生まれ)。
クララも家達と一緒に、このクローケーや、ルールが判りませんが「ロト」というゲームで遊ぶのですが、その何れも家達が勝利を収めています。
流石にクララも疑わしく思ったらしく『……どうしていつも勝つのかしら?』というひどく素朴な、しかし「オトナの事情」が判っているんだか、判っていないんだかw感想を書き記しています。・・・こういうのを本当の『忖度』と云うのですよw。
さてそれ以来、しばしばクララの家に来るようになった家達ですが同年の5月23日、クララの家のある木挽町周辺で、海軍省主催の「ある実験」が行われ、それがクララの家の露台から会場の広場がよく見えると云うことで、クララの家に再びやってきます。
随員は海舟、大鳥圭介、大久保三郎(大久保一翁の息子)と、面子だけ見ると殆ど「江戸幕府復活」。しかもそれが「一商学校のお雇い外国人の家」に集まっている、というのだから、この時代の面白さを感ぜずにはいられません。
さて、ここで今回のクエスチョン。岩倉具視や寺島宗則、松方正義まで出席して行われた、この日の「海軍省の実験」とは一体なんだったでしょう?
ヒントとしては、現在同じイベントをやったとしてもそれなりに人が集まる見せ物ですね。実際にスポーツとしても存在していて、日本だとそのメッカは佐賀県でしょうか?
前回の問題でクララが明治10年の正月に勝家を訪れた際について書きましたが、それを遡ること一週間前の12月25日。ホイットニー家で開かれたクリスマスパーティーには、前年の海舟、福沢諭吉、大鳥圭介らを凌ぐ驚くべき人物がゲストとしてやってきます。
彼の名前は徳川家達。慶喜に代わり、明治の世となってから第16代徳川宗家を継いだ人物であり、後に貴族院議長も勤め、日本史の教科書にもワシントン軍縮会議の全権代表として名前が記されています。
もっとも慶喜の跡継ぎと云っても慶喜の実子ではなく、元は御三卿田安家当主であり、しかも宗家を継いだ明治維新時にはまだ6歳の時。しかもその直後に慶喜と同様に静岡に送られ、しかし廃藩置県のあおりで再び東京へと戻っていきます。
ですのでクララの屋敷にやってきた頃は、満の年齢で云えば弱冠13歳。クララの日記によればこんな感じの登場でした。
『それから今宵の花形、つまり徳川家の若殿が三人の従者を連れて、自家用人力車で静かに入ってこられた。14か15歳だが、非常に威厳のある風采の方で、とても色が黒く、濃い赤みがかった鷲鼻、細い眼、小さい弓形の口をしておられる。背と胸に、聖なる徳川家の紋がついていた。アメリカでは大君と呼ばれている方だ』
勿論他の日本人達は興味はあるので隠れ見たり畏れ多くてなかなかうち解けられないわけですが、その点クララは全く物怖じしません。
『私は将軍と握手をし、脇に座って絵をお見せしたが、畏敬の念など一つも起きなかった。事実、この若殿を護ってあげているような気さえした!』と、殆ど弟扱い。
家達自身もそんなクララが気に入ったのか、翌明治10年2月17日、クララとその母親を赤坂の屋敷に招くことになります。
巷間では明治に入ってすぐの徳川家はかなり困窮していたように描かれていますが、流石は腐っても徳川宗家。長い塀にどっしりした門構え、五十段ばかりの石段、物々しい護衛、立派な部屋。床に敷かれたブリュッセル絨毯。部屋の隅々に置かれた立派な屏風と、最低限の格式は備えていたようです。
しかも屋敷裏には何故かクローケーの競技場があったりしました。クローケーというのはイギリス発祥のスポーツで、ルールとしては「芝生の上で木槌で木製のボールを打ち、鉄の門を通し、相手のボールを追いのけながらゴールのポールにあてる」というもの。一番イメージしやすく云えば、ゲートボールの原型ですね(ゲートボールは日本生まれ)。
クララも家達と一緒に、このクローケーや、ルールが判りませんが「ロト」というゲームで遊ぶのですが、その何れも家達が勝利を収めています。
流石にクララも疑わしく思ったらしく『……どうしていつも勝つのかしら?』というひどく素朴な、しかし「オトナの事情」が判っているんだか、判っていないんだかw感想を書き記しています。・・・こういうのを本当の『忖度』と云うのですよw。
さてそれ以来、しばしばクララの家に来るようになった家達ですが同年の5月23日、クララの家のある木挽町周辺で、海軍省主催の「ある実験」が行われ、それがクララの家の露台から会場の広場がよく見えると云うことで、クララの家に再びやってきます。
随員は海舟、大鳥圭介、大久保三郎(大久保一翁の息子)と、面子だけ見ると殆ど「江戸幕府復活」。しかもそれが「一商学校のお雇い外国人の家」に集まっている、というのだから、この時代の面白さを感ぜずにはいられません。
さて、ここで今回のクエスチョン。岩倉具視や寺島宗則、松方正義まで出席して行われた、この日の「海軍省の実験」とは一体なんだったでしょう?
ヒントとしては、現在同じイベントをやったとしてもそれなりに人が集まる見せ物ですね。実際にスポーツとしても存在していて、日本だとそのメッカは佐賀県でしょうか?