異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」最終回は、明治19年に勝海舟の三男、勝(梶)梅太郎と結婚したクララのその後を。
クララの日記は来日当初から、人物批評は大変厳しかったりします。
少女らしい潔癖さの現れ、という見方も出来るわけですが、クララと知り合った当初はさほど有名人でなくとも、後世それなりに名前を残すことになる人物については、ちゃんと評価している所を見ると、クララの人物鑑定眼はそれなりのものがあったことが分かります。
ちなみに独身男性に関しての批評は、それなりに「意識して」記録している訳で、徳川家達の付き人的役割も果たしていた、大久保一翁の息子である三郎(後の東京帝国大学植物学教授)を巡っては、親友の逸子に対して、ささやかな「ライバル意識」もあったりと。
さて、そんな鑑定眼の鋭いクララから見た梅太郎ですが。
本当に当初だけこそ『梅太郎は頭が良い』と表現していますが、第8回で紹介したように褒め言葉は変わっていきます。
ぶっちゃけて云えば『紅顔の美少年で、当時の日本人としては背も飛び抜けて高く、いつまでも無邪気で子供っぽくて』……と、梅太郎に関してだけは、元々他の男性を判定する際の基準とは全く違ってます。弟(しかも駄目弟w)を溺愛するお姉さんは斯くの如きか、と思わされます。
但し、クララも当然の事ながら梅太郎がヘタれなことは理解している訳で、殆ど思いつきだけで「キリスト教系の大学に行って勉強する」「長崎に行って神父になる勉強をする」と突然言い出す梅太郎を「あなたには無理だからやめておきなさい」と日記の中でも必死に止めてます。
不思議なことに海舟は、梅太郎にもその弟の七郎にも、自分で特別な教育を施す気がなかったため(長男小鹿の死後は明らかに意図的に勝家を潰そうとしている)、勝家で自由奔放に遊んで過ごさせた結果、梅太郎は今で云う「ニート状態」になってしまってたわけで。「国際恋愛」「できちゃった結婚」「ニート」と、勝家だけは時代を百年以上先取りしていたわけですね!
と云う具合に、問答無用の生活無能力者である梅太郎ですが、嫁さんを貰った以上働かざるを得ず、最初は横浜のドック会社に勤め始めます(この会社の詳細は不明ですが、この造船ドックはサードシーズンで紹介した川田龍吉が製作したドックの可能性がかなり濃厚)。
ですが勤務先が勤務先だけあって週末しか戻ってこれず、しかも薄給と云うこともあってクララ自身も明治女学院で教鞭をとることになります。
後に梅太郎は東京の製綿工場に職場を変えますが、それでも六人の子供を抱えた暮らしは楽にならず、結局海舟に建てて貰った屋敷に住むことになります。
しかし杖とも柱とも頼むその海舟が明治32年1月、77歳で亡くなってしまいます。
そしてこれより1年4ケ月後、クララは梅太郎と一家の最後の記念写真を撮った後、梅太郎に別離を告げ、アメリカに引き上げていくことになります。
もっともこのクララのアメリカ行きは海舟の生前、既に許されていたことが、末娘のヒルダの自伝から分かります。
『私は、私たちのアメリカ行きが、勝のお祖父さんによって許されたものであることを知っています。お祖父さんは、西洋に深い共感をもっているお祖父さん自身がいなくなったら、アメリカ風の考えで育った私達が、日本での生活について行かれないのではないかと、思っていたからではなかったでしょうか』
かくして子供を引き連れてアメリカに渡ったクララですが、既にその地に身寄りはなく、ただ「有名な州立の師範学校がある」というのだけを頼りに、ペンシルバニア州に移り住みます。
そして勝家からの支援はあったものの、その地で立派に6人の子供を育て上げ、老後は末娘ヒルダの家で孫の世話をし、1936年、脳溢血で波乱に富んだ生涯を終えることになります。
さて、ここで今シリーズのラストクエスチョン。
クララ帰国後間もなく、梅太郎が日本から出した手紙が今なお残されています。
そこにはクララへの、そして長男ウォルターへの、父親としての心情の籠もった言葉が綴られていますが、さて梅太郎がウォルター宛に出した手紙は、ローマ字、英語、何れで書かれていたでしょう?
今回はラスト問題ということで、ズバリ二択で!
クララの日記は来日当初から、人物批評は大変厳しかったりします。
少女らしい潔癖さの現れ、という見方も出来るわけですが、クララと知り合った当初はさほど有名人でなくとも、後世それなりに名前を残すことになる人物については、ちゃんと評価している所を見ると、クララの人物鑑定眼はそれなりのものがあったことが分かります。
ちなみに独身男性に関しての批評は、それなりに「意識して」記録している訳で、徳川家達の付き人的役割も果たしていた、大久保一翁の息子である三郎(後の東京帝国大学植物学教授)を巡っては、親友の逸子に対して、ささやかな「ライバル意識」もあったりと。
さて、そんな鑑定眼の鋭いクララから見た梅太郎ですが。
本当に当初だけこそ『梅太郎は頭が良い』と表現していますが、第8回で紹介したように褒め言葉は変わっていきます。
ぶっちゃけて云えば『紅顔の美少年で、当時の日本人としては背も飛び抜けて高く、いつまでも無邪気で子供っぽくて』……と、梅太郎に関してだけは、元々他の男性を判定する際の基準とは全く違ってます。弟(しかも駄目弟w)を溺愛するお姉さんは斯くの如きか、と思わされます。
但し、クララも当然の事ながら梅太郎がヘタれなことは理解している訳で、殆ど思いつきだけで「キリスト教系の大学に行って勉強する」「長崎に行って神父になる勉強をする」と突然言い出す梅太郎を「あなたには無理だからやめておきなさい」と日記の中でも必死に止めてます。
不思議なことに海舟は、梅太郎にもその弟の七郎にも、自分で特別な教育を施す気がなかったため(長男小鹿の死後は明らかに意図的に勝家を潰そうとしている)、勝家で自由奔放に遊んで過ごさせた結果、梅太郎は今で云う「ニート状態」になってしまってたわけで。「国際恋愛」「できちゃった結婚」「ニート」と、勝家だけは時代を百年以上先取りしていたわけですね!
と云う具合に、問答無用の生活無能力者である梅太郎ですが、嫁さんを貰った以上働かざるを得ず、最初は横浜のドック会社に勤め始めます(この会社の詳細は不明ですが、この造船ドックはサードシーズンで紹介した川田龍吉が製作したドックの可能性がかなり濃厚)。
ですが勤務先が勤務先だけあって週末しか戻ってこれず、しかも薄給と云うこともあってクララ自身も明治女学院で教鞭をとることになります。
後に梅太郎は東京の製綿工場に職場を変えますが、それでも六人の子供を抱えた暮らしは楽にならず、結局海舟に建てて貰った屋敷に住むことになります。
しかし杖とも柱とも頼むその海舟が明治32年1月、77歳で亡くなってしまいます。
そしてこれより1年4ケ月後、クララは梅太郎と一家の最後の記念写真を撮った後、梅太郎に別離を告げ、アメリカに引き上げていくことになります。
もっともこのクララのアメリカ行きは海舟の生前、既に許されていたことが、末娘のヒルダの自伝から分かります。
『私は、私たちのアメリカ行きが、勝のお祖父さんによって許されたものであることを知っています。お祖父さんは、西洋に深い共感をもっているお祖父さん自身がいなくなったら、アメリカ風の考えで育った私達が、日本での生活について行かれないのではないかと、思っていたからではなかったでしょうか』
かくして子供を引き連れてアメリカに渡ったクララですが、既にその地に身寄りはなく、ただ「有名な州立の師範学校がある」というのだけを頼りに、ペンシルバニア州に移り住みます。
そして勝家からの支援はあったものの、その地で立派に6人の子供を育て上げ、老後は末娘ヒルダの家で孫の世話をし、1936年、脳溢血で波乱に富んだ生涯を終えることになります。
さて、ここで今シリーズのラストクエスチョン。
クララ帰国後間もなく、梅太郎が日本から出した手紙が今なお残されています。
そこにはクララへの、そして長男ウォルターへの、父親としての心情の籠もった言葉が綴られていますが、さて梅太郎がウォルター宛に出した手紙は、ローマ字、英語、何れで書かれていたでしょう?
今回はラスト問題ということで、ズバリ二択で!