異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第9回は、クララの運命の変転を。
明治13年(1880年)1月26日、先発した父親を追って日本を離れたクララ達一行はスエズ運河経由でまず倫敦へ向かいます。当地には森有礼夫妻、徳川家達がいて出迎えてくれたのは既に書きましたが、当地でクララは親友の逸子が目賀田種太郎(後の男爵)と結婚することになったことを聞かされます。
この後、クララ一家はフィラデルフィアに移り、1882年初頭、再び日本への来日準備を始めます。
が、この頃から急速に父親の容態が悪化。再びヨーロッパ経由で日本に向かった一家ですが、父親は8月末、倫敦で客死。
それでも母アンナは来日を断念しませんでした。そこまでして来日に拘ったアンナの心境はクララの日記には記されていませんが、キリスト教の伝道と、長男ウイリスをクリスチャンドクターとして日本で働かせたいという希望があったようです。
『かくてエホバは、彼らを望むところの湊にみちびき給う』(詩編107・30)
彼らが横浜に到着したのは明治15年(1882年)の11月のことでした。
『これは私たちが、21日――この数年間、私たちの希望のメッカであった東京の地を再び踏んだ日に、頭に浮かんだ聖句である』
もうこの頃には故国アメリカより、クララの気持ちが完全に日本に移っていたことが分かります。
逸子は既に結婚して一児の母になっていましたでしたが、それでも相変わらず愉快な娘さんだったらしく、勝家の方でもたみ夫人を筆頭に、再び勝家の敷地内の家で暮らせるように改築してまで出迎えています。
ですが何よりクララを喜ばせたのは梅太郎の変わりぶりでした。
『祝福あれ、若者。彼は十九歳の大柄な若人に成長し、物腰も控え目で落ち着いているが、何より素晴らしいのは、すっかり心が変わったことである。まったく信心深いクリスチャンになったのである。それは色々な振る舞いに表れている。たとえばある夜、お茶の後、梅太郎は敬虔な態度でテーブルの側に頭を垂れて感謝のお祈りをしたので、こちらが非難されたような気がした。昨夜母に「全て、限りなき生命に定められたる者は加えられけり(使徒行伝13/48)」という聖書の一節の意味を尋ねた。良い青年で私たちは彼を誇りに思う』
ですが梅太郎と再会した喜びも束の間、今度は母アンナが来日一ヶ月足らずで発病し、クララの必死の看病も虚しく、翌年4月には亡くなってしまいます。
その精神的衝撃は日記を読んでいても行き詰まるように伝わってきますが、辛うじて勝家の人々や彼女と仲の良かった日本人たちのお陰で、なんとか立ち直ります。
この時のたみ夫人がクララに伝えた言葉は月並みな言葉なのかも知れませんが、宗教云々関係なしに、クララに強い感銘を残します。
母アンナを埋葬する場所として、同胞の友人達は横浜の外人墓地を勧めたのですが『私たちは母の意志に従って、母の愛していた日本人の間に、母を置くことが一番良いと思った』ということで、アンナの友人でもあった大山巌夫人も大鳥圭介夫人も眠る青山に埋葬されることになります。
その結果、アンナ・ホイットニーは青山墓地に眠る最初の外国人としてもまた、後の歴史に記録されることになります。
さてここで今回のクエスチョン。
生前アンナは大山巌中将(後の陸軍元帥)から後妻である山川捨松との間の女の子(正確には先妻の子)に「英語を教えて欲しい」と頼まれていましたが、この娘さんは後に日本を代表する某有名作家の代表作の、悲運のモデルとなります。さて、この日本を代表する作家とは一体誰でしょう?
明治13年(1880年)1月26日、先発した父親を追って日本を離れたクララ達一行はスエズ運河経由でまず倫敦へ向かいます。当地には森有礼夫妻、徳川家達がいて出迎えてくれたのは既に書きましたが、当地でクララは親友の逸子が目賀田種太郎(後の男爵)と結婚することになったことを聞かされます。
この後、クララ一家はフィラデルフィアに移り、1882年初頭、再び日本への来日準備を始めます。
が、この頃から急速に父親の容態が悪化。再びヨーロッパ経由で日本に向かった一家ですが、父親は8月末、倫敦で客死。
それでも母アンナは来日を断念しませんでした。そこまでして来日に拘ったアンナの心境はクララの日記には記されていませんが、キリスト教の伝道と、長男ウイリスをクリスチャンドクターとして日本で働かせたいという希望があったようです。
『かくてエホバは、彼らを望むところの湊にみちびき給う』(詩編107・30)
彼らが横浜に到着したのは明治15年(1882年)の11月のことでした。
『これは私たちが、21日――この数年間、私たちの希望のメッカであった東京の地を再び踏んだ日に、頭に浮かんだ聖句である』
もうこの頃には故国アメリカより、クララの気持ちが完全に日本に移っていたことが分かります。
逸子は既に結婚して一児の母になっていましたでしたが、それでも相変わらず愉快な娘さんだったらしく、勝家の方でもたみ夫人を筆頭に、再び勝家の敷地内の家で暮らせるように改築してまで出迎えています。
ですが何よりクララを喜ばせたのは梅太郎の変わりぶりでした。
『祝福あれ、若者。彼は十九歳の大柄な若人に成長し、物腰も控え目で落ち着いているが、何より素晴らしいのは、すっかり心が変わったことである。まったく信心深いクリスチャンになったのである。それは色々な振る舞いに表れている。たとえばある夜、お茶の後、梅太郎は敬虔な態度でテーブルの側に頭を垂れて感謝のお祈りをしたので、こちらが非難されたような気がした。昨夜母に「全て、限りなき生命に定められたる者は加えられけり(使徒行伝13/48)」という聖書の一節の意味を尋ねた。良い青年で私たちは彼を誇りに思う』
ですが梅太郎と再会した喜びも束の間、今度は母アンナが来日一ヶ月足らずで発病し、クララの必死の看病も虚しく、翌年4月には亡くなってしまいます。
その精神的衝撃は日記を読んでいても行き詰まるように伝わってきますが、辛うじて勝家の人々や彼女と仲の良かった日本人たちのお陰で、なんとか立ち直ります。
この時のたみ夫人がクララに伝えた言葉は月並みな言葉なのかも知れませんが、宗教云々関係なしに、クララに強い感銘を残します。
母アンナを埋葬する場所として、同胞の友人達は横浜の外人墓地を勧めたのですが『私たちは母の意志に従って、母の愛していた日本人の間に、母を置くことが一番良いと思った』ということで、アンナの友人でもあった大山巌夫人も大鳥圭介夫人も眠る青山に埋葬されることになります。
その結果、アンナ・ホイットニーは青山墓地に眠る最初の外国人としてもまた、後の歴史に記録されることになります。
さてここで今回のクエスチョン。
生前アンナは大山巌中将(後の陸軍元帥)から後妻である山川捨松との間の女の子(正確には先妻の子)に「英語を教えて欲しい」と頼まれていましたが、この娘さんは後に日本を代表する某有名作家の代表作の、悲運のモデルとなります。さて、この日本を代表する作家とは一体誰でしょう?