現代の徳政令
北村龍行『「借金棒引き」の経済学』
集英社新書 2000年
そこで本書では、日本社会の生命力の源流を中世に求めつつ、現在の日本経済に顕著な徳政状況を現在と中世をつなぐ糸として、これからの日本経済の生命力について考えてみたい。
そうした低金利の循環を可能にしたのは、1947年(昭和22年)12月に施行された、わずか12条の法律「臨時金利調整法」(臨金法)だった。 ・・・・・・。
しかし、98年4月に新日銀法が施行されるまで、日銀政策委員会が睡眠状態にあったことは周知の事実である。実質的に金利決定の権利を行使したのは大蔵省だった。
これはもう、棒引きした借金を元手にまた棒引きを図るという、「やらずぶったくり」とでもいうべき荒業である。独裁権力でなければ不可能な理不尽さといえよう。
では、ことはそれで収まったのだろうか。いや、中世の日本人はそんなにおとなしくはない。それに、これまでみてきたように、日本の中世は訴訟の時代であった。
御家人から凡下に至るまで、土地を守るため、あるいは中央の政策変更に乗じて土地を騙し取るために、訴訟が激増することになる。
現在の日本人だけをみて、日本人は訴訟が苦手とか、結局は泣き寝入りしてしまうなどというのは、はなはだ危うい議論である。利があるとなれば、なんでもいとわずに訴訟に取り掛かるというのが中世の日本人であり、まぎれもなく現在のわれわれにつながる人間像であったのだ。
鎌倉幕府は、自立的な諸集団、諸身分、諸勢力の内部には干渉せず、それら相互の利害関係を調整する分権的な統治形態をとった。
そしてそうした集団・勢力、さらには地域それぞれに「道理」が存在して、互いに侵犯を許さなかった。荘園においては、その道理が「撫民と公平」だった。
そして、中世の道理に代わって幕藩体制の統治の論理として登場したのが、「公儀」の「ご威光」である。
その「公儀」が出す法令は1613年(慶弔18年)の「公家諸法度」、1615年(元和元年)の「武家諸法度」に代表される「ご法度」であった。要するに「禁止令」である。道理も議論もなく、「してはいけない」という結論のみ。学校の校則のようなものだ。
戦後の日本の徳政令は、為政者の支配を強化することが目的ではなく、敗戦からの経済復興を目指したものだった。また、中世のように暴力的に借金を棒引きにするという見えやすい政策ではなく、金融システムを利用した巧緻なものだった。
こうして(大蔵省は)一切の創意工夫を禁じ、競争を制限して秩序を維持したのだった。
セ-フティネットは形だけの段ボ-ルで作った救命ボ-ト。これがバブル経済が崩壊して金融危機が表面化するころの、日本の金融システムの実態だった。
この「銀行倒産はない」と大蔵省が言う、だから銀行倒産はありえない、ありえないことに備える必要はない、という「ない」の三段論法は、日本は神国である、だから負けることはない、だから敗北に備える必要はない、という論法とどこか似ていた。
この体制は、息苦しいけれども、楽でもある。
日本経済の高度成長を支えたメカニズムの一つは、欧米の金融機関や産業界には理解し難い低利融資の存在であった。それを可能にしたのが、低預金金利政策という戦後型徳政令と、後に触れる財政投融資制度だった。
日本人が、大蔵省の意図的な低預金金利政策の存在も知らずに営々と貯金し、そうして集めた低コストの資金を、銀行は産業界に低利で融資あるいは出資し、産業界は低コストの資金で設備投資が可能になって、国際競争力を獲得することができた。
日本人の個々人は、長期の経済成長によって毎年、賃上げを獲得してきた。しかし、給与に金利はつかない。運用して初めて資産となる。その運用の手段を奪われていたために、日本人個人の資産形成は、経済成長の大きさに比べて、貧しいものにとどまった。
一方、銀行や企業は、不動産や、出資や持合いで獲得した株式を、ほとんど売買しなかった。特に資本自由化以後は、安定株主として持ち続けた。
そうした不動産や株式の価格は長期間にわたって上昇し、銀行や企業は膨大な含み益を蓄積することになった。
これが戦後の日本で、長期間、巨大な規模で展開されてきた徳政令のメカニズムである。
これまで大蔵省や金融機関が、「お前のものは俺のもの」といわんばかりに無造作に扱ってきた膨大な個人金融資産には、それぞれ持ち主があり、大切に扱わないと海外の同業者にもっていかれてしまうという認識が、日本の金融機関にようやく生まれた。
大蔵省の統治原理では対応出来ない事態が、バブル経済期の金融の国際化で生まれていた。ル-ルが変わり始めていたのだ。
住専処理をめぐる情報の隠蔽と説明不足は、大蔵省にとっても金融界にとっても財政にとっても日本経済全体にとっても、まことに高いものについた。
結局、失敗したのは、大蔵省の護送船団方式もさることながら、現実に即して可能な選択を追及するのではなく、権威によって国民を依らしめるという、「公儀」以来の権威的な統治原理だった。
行政の権威が傷つけば、信頼が失われて当事者能力を失いかねないというこの仕組みでは、失敗や誤りを行政として認めること自体が、行政の自己否定に結びつく。
そこで行政当局は、人間には不可能な「無誤謬」という神話・観念にしがみつくことになる。
行政が誤りや失敗を公認できないのであれば、国民を信頼して広範な情報を開示することなどできるはずもない。さらに権威の失墜を恐れて不利な情報が隠蔽されるのは当然だった。
他方、「依らしめられた」国民は、権威に頼り、おもねることに慣れて、公表された情報に基づいて自己責任で判断を下すという鍛錬を受けることはなかった。
断片的な、場合によっては風説に類するような情報に振り回されても、むしろそれを楽しんだ。その判断、選択の誤りの責任を取る必要がなかったからである。社会の構成員というよりは、芝居の観客に似た存在であった。
しかし、権威による統治に慣れた行政も政治も国民も、恐ろしく観念的であった。
現実を直視するのではなく、面子や観念が優先される仕組みでは、行政も政治も国民も相互の面子が傷つくことを恐れて現実から目をそむけてしまう。現実を犠牲にして建前を守るという力学が働いてしまう。
現在の日本人のある種の「幼さ」は、現実を見据える訓練の不足によるものではないかとさえ思えるのだ。
とはいえ、これは日本人の一般論ではない。現実に中世の日本には、平安時代までの呪術的な支配から逃れて、しかも江戸幕府以降の官僚支配にはいまだなじまず、自己責任に基づいた行動をとる魅力的な人々が多くいた。
少なくとも、経営の最高責任者に、直前まで不良債権の実態が知らされていなかったことは確実だった。危機を管理するにはナイ-ブすぎる人間に、世界的な金融システム危機に結びつきかねない瀬戸際のリスク管理が委ねられていたことも一目瞭然だった。
そして、山一證券を破綻させた当事者たちは、その時点では姿を消していた。管理者も責任者も不在という、ありうべからざる事態が目の前で起きていた。
生贄の新社長に、記者会見の席で立ち往生させ、泣き叫ばせることが大蔵省のシナリオだったのだろうか。山一證券の自主廃業の背後に控える大蔵省の姿は異様であり、理解不能だった。
このため、官僚支配に依存していた分野と、銀行の公的使命に依存していた分野は大きな変化に直面することになる。
そして、官僚に代わって統治の主体に進出してくるのは、より自立した個人しかありえない。しかし、その役割と力量とはまだはっきり見えていない。
権威による統治には、幾つかの弊害がある。
第一には、失敗を認めることができない。・・・・・・・。
第二に、抜本的な対策を採ることができない。・・・・・・。
第三に、ル-ルが変更されたときに、意外な脆さを露呈する。・・・・・・。
第四に、権威が及ばない外部には無力である。・・・・・・。
第五に、権威による統治では、統治者は保護者として振舞うから、統治される側が鍛えられることがないし、統治者と秘統治者が運命共同体として結びつくこともない。・・・・・・・。
第六に、技術革新や変革を秩序維持の名において妨害する傾向がある。・・・・・・・。
最後に、権威による統治では行政の中に専門家が育たない。・・・・・・・。
そして懸念するのは、日本の中央官庁、場合によっては地方官庁も、多かれ少なかれ大蔵省に似た統治形態をとっているのではないか、ということだ。
そうだとすれば、大蔵省の失敗と退場は、今後、多くの官庁、役所、特殊法人、外郭団体などで追体験されることになる。すでに各地の県警本部では実証されてしまったが。
しかし、日本人が最初から、お上任せの自立心の弱い人間などではないことは、中世の日本人が証明している。
個人が自分で調べ、判断し、選択するように変わっていくとすれば、代わりの統治者の不在という最大の問題にも、自ずから解答がもたらされることになる。個人が主役に躍り出るほかはないのだ。
官僚に依存する時代が長く続いた分だけ、隠された失敗の累積は大きく、その失敗を糊塗しようにも、財政の悪化でごまかしも先送りもできなくなっている。
そのときに、個人や諸集団が開発してきた多様な論理や価値観が、官僚に代わる調節機能を果たすことができるであろうか。それだけの力と能力を備えるまでに育っているだろうか。最大の不安がここにある。
北村龍行『「借金棒引き」の経済学』
集英社新書 2000年
そこで本書では、日本社会の生命力の源流を中世に求めつつ、現在の日本経済に顕著な徳政状況を現在と中世をつなぐ糸として、これからの日本経済の生命力について考えてみたい。
そうした低金利の循環を可能にしたのは、1947年(昭和22年)12月に施行された、わずか12条の法律「臨時金利調整法」(臨金法)だった。 ・・・・・・。
しかし、98年4月に新日銀法が施行されるまで、日銀政策委員会が睡眠状態にあったことは周知の事実である。実質的に金利決定の権利を行使したのは大蔵省だった。
これはもう、棒引きした借金を元手にまた棒引きを図るという、「やらずぶったくり」とでもいうべき荒業である。独裁権力でなければ不可能な理不尽さといえよう。
では、ことはそれで収まったのだろうか。いや、中世の日本人はそんなにおとなしくはない。それに、これまでみてきたように、日本の中世は訴訟の時代であった。
御家人から凡下に至るまで、土地を守るため、あるいは中央の政策変更に乗じて土地を騙し取るために、訴訟が激増することになる。
現在の日本人だけをみて、日本人は訴訟が苦手とか、結局は泣き寝入りしてしまうなどというのは、はなはだ危うい議論である。利があるとなれば、なんでもいとわずに訴訟に取り掛かるというのが中世の日本人であり、まぎれもなく現在のわれわれにつながる人間像であったのだ。
鎌倉幕府は、自立的な諸集団、諸身分、諸勢力の内部には干渉せず、それら相互の利害関係を調整する分権的な統治形態をとった。
そしてそうした集団・勢力、さらには地域それぞれに「道理」が存在して、互いに侵犯を許さなかった。荘園においては、その道理が「撫民と公平」だった。
そして、中世の道理に代わって幕藩体制の統治の論理として登場したのが、「公儀」の「ご威光」である。
その「公儀」が出す法令は1613年(慶弔18年)の「公家諸法度」、1615年(元和元年)の「武家諸法度」に代表される「ご法度」であった。要するに「禁止令」である。道理も議論もなく、「してはいけない」という結論のみ。学校の校則のようなものだ。
戦後の日本の徳政令は、為政者の支配を強化することが目的ではなく、敗戦からの経済復興を目指したものだった。また、中世のように暴力的に借金を棒引きにするという見えやすい政策ではなく、金融システムを利用した巧緻なものだった。
こうして(大蔵省は)一切の創意工夫を禁じ、競争を制限して秩序を維持したのだった。
セ-フティネットは形だけの段ボ-ルで作った救命ボ-ト。これがバブル経済が崩壊して金融危機が表面化するころの、日本の金融システムの実態だった。
この「銀行倒産はない」と大蔵省が言う、だから銀行倒産はありえない、ありえないことに備える必要はない、という「ない」の三段論法は、日本は神国である、だから負けることはない、だから敗北に備える必要はない、という論法とどこか似ていた。
この体制は、息苦しいけれども、楽でもある。
日本経済の高度成長を支えたメカニズムの一つは、欧米の金融機関や産業界には理解し難い低利融資の存在であった。それを可能にしたのが、低預金金利政策という戦後型徳政令と、後に触れる財政投融資制度だった。
日本人が、大蔵省の意図的な低預金金利政策の存在も知らずに営々と貯金し、そうして集めた低コストの資金を、銀行は産業界に低利で融資あるいは出資し、産業界は低コストの資金で設備投資が可能になって、国際競争力を獲得することができた。
日本人の個々人は、長期の経済成長によって毎年、賃上げを獲得してきた。しかし、給与に金利はつかない。運用して初めて資産となる。その運用の手段を奪われていたために、日本人個人の資産形成は、経済成長の大きさに比べて、貧しいものにとどまった。
一方、銀行や企業は、不動産や、出資や持合いで獲得した株式を、ほとんど売買しなかった。特に資本自由化以後は、安定株主として持ち続けた。
そうした不動産や株式の価格は長期間にわたって上昇し、銀行や企業は膨大な含み益を蓄積することになった。
これが戦後の日本で、長期間、巨大な規模で展開されてきた徳政令のメカニズムである。
これまで大蔵省や金融機関が、「お前のものは俺のもの」といわんばかりに無造作に扱ってきた膨大な個人金融資産には、それぞれ持ち主があり、大切に扱わないと海外の同業者にもっていかれてしまうという認識が、日本の金融機関にようやく生まれた。
大蔵省の統治原理では対応出来ない事態が、バブル経済期の金融の国際化で生まれていた。ル-ルが変わり始めていたのだ。
住専処理をめぐる情報の隠蔽と説明不足は、大蔵省にとっても金融界にとっても財政にとっても日本経済全体にとっても、まことに高いものについた。
結局、失敗したのは、大蔵省の護送船団方式もさることながら、現実に即して可能な選択を追及するのではなく、権威によって国民を依らしめるという、「公儀」以来の権威的な統治原理だった。
行政の権威が傷つけば、信頼が失われて当事者能力を失いかねないというこの仕組みでは、失敗や誤りを行政として認めること自体が、行政の自己否定に結びつく。
そこで行政当局は、人間には不可能な「無誤謬」という神話・観念にしがみつくことになる。
行政が誤りや失敗を公認できないのであれば、国民を信頼して広範な情報を開示することなどできるはずもない。さらに権威の失墜を恐れて不利な情報が隠蔽されるのは当然だった。
他方、「依らしめられた」国民は、権威に頼り、おもねることに慣れて、公表された情報に基づいて自己責任で判断を下すという鍛錬を受けることはなかった。
断片的な、場合によっては風説に類するような情報に振り回されても、むしろそれを楽しんだ。その判断、選択の誤りの責任を取る必要がなかったからである。社会の構成員というよりは、芝居の観客に似た存在であった。
しかし、権威による統治に慣れた行政も政治も国民も、恐ろしく観念的であった。
現実を直視するのではなく、面子や観念が優先される仕組みでは、行政も政治も国民も相互の面子が傷つくことを恐れて現実から目をそむけてしまう。現実を犠牲にして建前を守るという力学が働いてしまう。
現在の日本人のある種の「幼さ」は、現実を見据える訓練の不足によるものではないかとさえ思えるのだ。
とはいえ、これは日本人の一般論ではない。現実に中世の日本には、平安時代までの呪術的な支配から逃れて、しかも江戸幕府以降の官僚支配にはいまだなじまず、自己責任に基づいた行動をとる魅力的な人々が多くいた。
少なくとも、経営の最高責任者に、直前まで不良債権の実態が知らされていなかったことは確実だった。危機を管理するにはナイ-ブすぎる人間に、世界的な金融システム危機に結びつきかねない瀬戸際のリスク管理が委ねられていたことも一目瞭然だった。
そして、山一證券を破綻させた当事者たちは、その時点では姿を消していた。管理者も責任者も不在という、ありうべからざる事態が目の前で起きていた。
生贄の新社長に、記者会見の席で立ち往生させ、泣き叫ばせることが大蔵省のシナリオだったのだろうか。山一證券の自主廃業の背後に控える大蔵省の姿は異様であり、理解不能だった。
このため、官僚支配に依存していた分野と、銀行の公的使命に依存していた分野は大きな変化に直面することになる。
そして、官僚に代わって統治の主体に進出してくるのは、より自立した個人しかありえない。しかし、その役割と力量とはまだはっきり見えていない。
権威による統治には、幾つかの弊害がある。
第一には、失敗を認めることができない。・・・・・・・。
第二に、抜本的な対策を採ることができない。・・・・・・。
第三に、ル-ルが変更されたときに、意外な脆さを露呈する。・・・・・・。
第四に、権威が及ばない外部には無力である。・・・・・・。
第五に、権威による統治では、統治者は保護者として振舞うから、統治される側が鍛えられることがないし、統治者と秘統治者が運命共同体として結びつくこともない。・・・・・・・。
第六に、技術革新や変革を秩序維持の名において妨害する傾向がある。・・・・・・・。
最後に、権威による統治では行政の中に専門家が育たない。・・・・・・・。
そして懸念するのは、日本の中央官庁、場合によっては地方官庁も、多かれ少なかれ大蔵省に似た統治形態をとっているのではないか、ということだ。
そうだとすれば、大蔵省の失敗と退場は、今後、多くの官庁、役所、特殊法人、外郭団体などで追体験されることになる。すでに各地の県警本部では実証されてしまったが。
しかし、日本人が最初から、お上任せの自立心の弱い人間などではないことは、中世の日本人が証明している。
個人が自分で調べ、判断し、選択するように変わっていくとすれば、代わりの統治者の不在という最大の問題にも、自ずから解答がもたらされることになる。個人が主役に躍り出るほかはないのだ。
官僚に依存する時代が長く続いた分だけ、隠された失敗の累積は大きく、その失敗を糊塗しようにも、財政の悪化でごまかしも先送りもできなくなっている。
そのときに、個人や諸集団が開発してきた多様な論理や価値観が、官僚に代わる調節機能を果たすことができるであろうか。それだけの力と能力を備えるまでに育っているだろうか。最大の不安がここにある。
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