童女のようにはしゃいだギリシャ旅行記 (哲学シリ-ズ1-5) [Kindle版]
内容紹介
筆者にすれば、テーマを絞りきるのに40代を丸々使った仕事が『情緒の力業』に結集し、平成7年に出版できたことで一区切りついたこともあって<アディオス・フィロソフィ! >の総仕上げの旅行でもあった。
3人の子育てという現実生活の魑魅魍魎からほぼ解き放されて、ギリシャの地に遊んだ夫婦の旅行記です。お読みいただければ、なんらかのサジェスチョンを受けられるでしょう。
お楽しみいただけましたら幸いです。
この本を無料配布したいが、Amazonでは2.99ドルが最低価格のため、やむを得ず有料にしています。
この本がお役立ち、またはお楽しみいただけましたら、次のステップの「天空に舞う一陣の風」「述語は永遠に……」にお進みください。
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登録情報
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内容紹介
著書『情緒の力業』第7章からの引用文を抜き出しました。
要するに、「引用」という手法はどのように使おうと線条性論理の守衛どまりなのである。
そこで、我々は以下に羅列する無作為な言葉の響き合わせ(義)によって、このような引用とは異なるものを意図(博)してみよう。
というのも、これは前後左右、顕在的なものと潜在的なもの、上下、過去と未来……を縦横に駆け巡って関係と依存の再建、新しい構築を企てる「情緒の力業」を作動させるやも知れぬ不確かな技法なのである。
不確かというのは、これは一に当事者の沈黙、忍耐、関心の集中という能動的受容が行われるか否かにかかっており、当事者の構想の中のみに存在し、客観的な有り様をして誰にでも把握出来るというものではないのである。
それは、太古に、あるいは原初にそうであったように「それ」と我々とが不可分離の一体をなしていたように再構成し、「それ」と我々を融即的な直感的全体と成し、断片化し無機化していた対象を意味に溢れる有機化した全体とする技法である。
これは、あるいは終わりが無い単なる「惚けた遊び」かも知れない。
しかし、ここにきて最早これ以上語りようがないのである。さらば、哲学よ!
268の引用集です。スマホ・タブレットに保存しておいて、修行のひとしぐさとして、ひらめきの嵐にまみえたいときなどに一寸お楽しみください。(著者)
哲学シリ-ズ全3巻の第1巻です。
第2巻「天空に舞う一陣の風」、第3巻「述語は永遠に……」もお楽しみください。
お買い上げの方に、『情緒の力業』著者取り置き本を先着10名様に贈呈します。奥付のメ-ルアドレスからご連絡ください。
要するに、「引用」という手法はどのように使おうと線条性論理の守衛どまりなのである。
そこで、我々は以下に羅列する無作為な言葉の響き合わせ(義)によって、このような引用とは異なるものを意図(博)してみよう。
というのも、これは前後左右、顕在的なものと潜在的なもの、上下、過去と未来……を縦横に駆け巡って関係と依存の再建、新しい構築を企てる「情緒の力業」を作動させるやも知れぬ不確かな技法なのである。
不確かというのは、これは一に当事者の沈黙、忍耐、関心の集中という能動的受容が行われるか否かにかかっており、当事者の構想の中のみに存在し、客観的な有り様をして誰にでも把握出来るというものではないのである。
それは、太古に、あるいは原初にそうであったように「それ」と我々とが不可分離の一体をなしていたように再構成し、「それ」と我々を融即的な直感的全体と成し、断片化し無機化していた対象を意味に溢れる有機化した全体とする技法である。
これは、あるいは終わりが無い単なる「惚けた遊び」かも知れない。
しかし、ここにきて最早これ以上語りようがないのである。さらば、哲学よ!
268の引用集です。スマホ・タブレットに保存しておいて、修行のひとしぐさとして、ひらめきの嵐にまみえたいときなどに一寸お楽しみください。(著者)
哲学シリ-ズ全3巻の第1巻です。
第2巻「天空に舞う一陣の風」、第3巻「述語は永遠に……」もお楽しみください。
お買い上げの方に、『情緒の力業』著者取り置き本を先着10名様に贈呈します。奥付のメ-ルアドレスからご連絡ください。
登録情報
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改訂 暗号について (哲学シリーズ3-5) [Kindle版]
Kindle 購入価格: | ¥ 410 |
内容紹介
ある事件が十三才の時、校庭で起きた。
秋始めのある晴れた日、私は昼食後の満腹感で校庭を歩きはじめた。他の中学生達は既に校庭で遊んでいた。すると急に、風の音と彼らの遊び声が、ボリュームを落とし、あたりが静まり、私は白いワイシャツが風に揺れているさまを見続けていた。それは風の強い日の旗のように、バタバタと音をたてていた。その衣服の白さとバタバタという音だけに、私の意識は集中した。その時、ひどい孤独と共に私は叫んだ。――ああ! 彼らも人間だ、と。
その白さ、バタバタという音は、私の意識に、他人としてそこに「ある(●●)」という感じを、叩きつけた。
はじまりはこれでした。
これが著者生涯のテーマとなった次第です。
「十有五にして学に志す」(論語)のその後の経過もご覧いただけましたら、あなたは必ずなにがしかのサジェスチョンを、人生の方向感覚のようなものを得られるでしょう。
秋始めのある晴れた日、私は昼食後の満腹感で校庭を歩きはじめた。他の中学生達は既に校庭で遊んでいた。すると急に、風の音と彼らの遊び声が、ボリュームを落とし、あたりが静まり、私は白いワイシャツが風に揺れているさまを見続けていた。それは風の強い日の旗のように、バタバタと音をたてていた。その衣服の白さとバタバタという音だけに、私の意識は集中した。その時、ひどい孤独と共に私は叫んだ。――ああ! 彼らも人間だ、と。
その白さ、バタバタという音は、私の意識に、他人としてそこに「ある(●●)」という感じを、叩きつけた。
はじまりはこれでした。
これが著者生涯のテーマとなった次第です。
「十有五にして学に志す」(論語)のその後の経過もご覧いただけましたら、あなたは必ずなにがしかのサジェスチョンを、人生の方向感覚のようなものを得られるでしょう。
登録情報
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*無料配布キャンペーンで199冊のDLをいただきました。
内容紹介
スマホにぴったりの暇つぶし! お楽しみいただけます。
卒論がアンカーになった72年の生涯説話集です。
目 次
一 白いワイシャツ
二 太平洋に雪崩込む丘陵
三 掩体壕
四 黄金の稲穂の波打ち
五 大山
六 志学元年の経験
七 ロッキーズ物語
八 ブレイクスルーな事態
九 童女のようにはしゃいだギリシャ旅行記
十 ソクラテス来迎
Book Review
著者略歴
卒論がアンカーになった72年の生涯説話集です。
目 次
一 白いワイシャツ
二 太平洋に雪崩込む丘陵
三 掩体壕
四 黄金の稲穂の波打ち
五 大山
六 志学元年の経験
七 ロッキーズ物語
八 ブレイクスルーな事態
九 童女のようにはしゃいだギリシャ旅行記
十 ソクラテス来迎
Book Review
著者略歴
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内容紹介
吾十有五而志于学((孔子・論語)に適い、中学卒業を期に香取飛行場から蒸気機関車で上京。「私とは何か」という述語探しのオブセッションの果てに、八月の京都駅頭で覚醒する物語。
〔参考〕Book Review 高野 義博著 『 情緒の力業』 針生清人(東洋大学文学部教授、校友会副会長)
世の識者は屡々(しばしば)「哲学が今こそ必要だ」という。それは現代社会に「哲学」が欠如しているからだという。しかし他方で、『ソフィーの世界』の爆発的な売れ行きを見て、「哲学が流行している」ともいわれている。しかし哲学は他者に要求されて始めるものでも、流行となるようなものでもあるまい。
「生きるに値する人生とは何か」、「世界とは何か」、「かく生き、かく問う私とは何か」を問うことから始まるのが哲学の元来だとすれば、各自が内発的に「哲学する」ことにこそ意義があるのであって、本書はその好個の例だといえる。前述の問いは、概念が先か個物が先かの如き抽象的な形式で問いを立て、それに対して客観的な答を用意して教説する講壇哲学者とは異なって、問わずにおれぬが故に問うところのものであり、真に「哲学する」ことを示す重味が本書にはある。そうであれば、本書の内容を要約して紹介するよりは、本書が成立した所以のことを紹介した方がより意義があると思われる。
高野義博氏はヤスパースの「暗号について」を卒業論文(百枚)として提出した(主査故飯島宗享教授)。すでにロマン派の文学は自然と歴史を神の暗号と見なしていたが、ヤスパースも哲学と宗教の歴史、超越者との出会いという人類の最も重要な経験がいわば暗号で書かれていると主唱し、自己の哲学的な経験こそがこの暗号を解読し得るのであって、そうでない者にとっては暗号で書かれている深部はないかのようである。いうならば、科学的、合理的な目には歴史の表層しか見えぬということである。この問題を取り上げていた著者には、理性を万能とする知的な、科学的な客観主義への懐疑が既にあり、「私とは何か」の問いの暗号解読を試みていた。このことに関わって、校庭に遊ぶ友人達に突如、意識が集中して、「存在の事実として、客観的対象として、そこに彼等が居る事実を認めさせられた」という中学生時代の経験を卒論に記述していた。これが著者の哲学することの原点であったが、硬直した客観主義に批判的な実存主義者であった指導教授の故飯島教授は、後に、『気分の哲学―失われた想像力を求めて―』という著書に於いて著者のこの「経験」を引用されたのである。このことは、著者にとって卒論に記述された私的な問題であったものが、公刊、公開されたことによって社会的営為となったため、更に深くこの問題を問いつめることを不可避としたのである。その追求は三十代を貫いて六百三十枚の『述語は永遠に…』となったのであるが、そこでの結論は、「私とは何か」を問うには知的な、科学的な客観主義に基く探求では限界があるということであり、概念ならざるものによる探求が更に進められ、本書となったのである。著者は社会人として生きながら、思索と読書と執筆に明け暮れ、「人生から三十代が抜け落ちていた」といわしめるほど、「哲学する」ものが格闘してきた軌跡を示すのが本書である。
本書の成立を支えたのは膨大なる読書量である。それは巻末に「文献一覧」として示されている。著者によると「三百冊程の本全てが一冊一冊有機的繋がりを持ち、読み進む度に新たな可能性が現れ細部が強固になる異常な精神の興奮の渦中で、意図せずに、自然に、幾多の啓示を受けたかのように、帰納的に或るヴィジョンが塊となった」というものである。しかも、読了した一冊一冊について、著者の心を深く捉えたと思われる箇所を引用し、列挙している。一読書人の読書記録としても壮観である。
著者が「哲学する」ことは更に続くであろうから、本書は尚「途上にあるもの」であるが、その論述されているところは的確であり、説得的である。著者が身辺を見回し、人生の意味を問い始めたのは、中学生時代の体験を問い直すことによってである。このことについて、著者は孔子の「吾十有五而志干学」における「志学」を考える。それまで与えられた環境、習慣、伝統等にただ順応して生き、全てを「見て見ず」であった事象を初めて意識的にそれを「それ」として「そこ」に見るということによって、即有的な状態に外部世界=現実が出現し、主客分離が始まるという。このことが「志学」の意味だという。我々は本書を読むことで、「哲学する」志学一年を始め得るといえよう。
(東洋大学校友会報第188号 平成8年7月31日発行)
〔参考〕Book Review 高野 義博著 『 情緒の力業』 針生清人(東洋大学文学部教授、校友会副会長)
世の識者は屡々(しばしば)「哲学が今こそ必要だ」という。それは現代社会に「哲学」が欠如しているからだという。しかし他方で、『ソフィーの世界』の爆発的な売れ行きを見て、「哲学が流行している」ともいわれている。しかし哲学は他者に要求されて始めるものでも、流行となるようなものでもあるまい。
「生きるに値する人生とは何か」、「世界とは何か」、「かく生き、かく問う私とは何か」を問うことから始まるのが哲学の元来だとすれば、各自が内発的に「哲学する」ことにこそ意義があるのであって、本書はその好個の例だといえる。前述の問いは、概念が先か個物が先かの如き抽象的な形式で問いを立て、それに対して客観的な答を用意して教説する講壇哲学者とは異なって、問わずにおれぬが故に問うところのものであり、真に「哲学する」ことを示す重味が本書にはある。そうであれば、本書の内容を要約して紹介するよりは、本書が成立した所以のことを紹介した方がより意義があると思われる。
高野義博氏はヤスパースの「暗号について」を卒業論文(百枚)として提出した(主査故飯島宗享教授)。すでにロマン派の文学は自然と歴史を神の暗号と見なしていたが、ヤスパースも哲学と宗教の歴史、超越者との出会いという人類の最も重要な経験がいわば暗号で書かれていると主唱し、自己の哲学的な経験こそがこの暗号を解読し得るのであって、そうでない者にとっては暗号で書かれている深部はないかのようである。いうならば、科学的、合理的な目には歴史の表層しか見えぬということである。この問題を取り上げていた著者には、理性を万能とする知的な、科学的な客観主義への懐疑が既にあり、「私とは何か」の問いの暗号解読を試みていた。このことに関わって、校庭に遊ぶ友人達に突如、意識が集中して、「存在の事実として、客観的対象として、そこに彼等が居る事実を認めさせられた」という中学生時代の経験を卒論に記述していた。これが著者の哲学することの原点であったが、硬直した客観主義に批判的な実存主義者であった指導教授の故飯島教授は、後に、『気分の哲学―失われた想像力を求めて―』という著書に於いて著者のこの「経験」を引用されたのである。このことは、著者にとって卒論に記述された私的な問題であったものが、公刊、公開されたことによって社会的営為となったため、更に深くこの問題を問いつめることを不可避としたのである。その追求は三十代を貫いて六百三十枚の『述語は永遠に…』となったのであるが、そこでの結論は、「私とは何か」を問うには知的な、科学的な客観主義に基く探求では限界があるということであり、概念ならざるものによる探求が更に進められ、本書となったのである。著者は社会人として生きながら、思索と読書と執筆に明け暮れ、「人生から三十代が抜け落ちていた」といわしめるほど、「哲学する」ものが格闘してきた軌跡を示すのが本書である。
本書の成立を支えたのは膨大なる読書量である。それは巻末に「文献一覧」として示されている。著者によると「三百冊程の本全てが一冊一冊有機的繋がりを持ち、読み進む度に新たな可能性が現れ細部が強固になる異常な精神の興奮の渦中で、意図せずに、自然に、幾多の啓示を受けたかのように、帰納的に或るヴィジョンが塊となった」というものである。しかも、読了した一冊一冊について、著者の心を深く捉えたと思われる箇所を引用し、列挙している。一読書人の読書記録としても壮観である。
著者が「哲学する」ことは更に続くであろうから、本書は尚「途上にあるもの」であるが、その論述されているところは的確であり、説得的である。著者が身辺を見回し、人生の意味を問い始めたのは、中学生時代の体験を問い直すことによってである。このことについて、著者は孔子の「吾十有五而志干学」における「志学」を考える。それまで与えられた環境、習慣、伝統等にただ順応して生き、全てを「見て見ず」であった事象を初めて意識的にそれを「それ」として「そこ」に見るということによって、即有的な状態に外部世界=現実が出現し、主客分離が始まるという。このことが「志学」の意味だという。我々は本書を読むことで、「哲学する」志学一年を始め得るといえよう。
(東洋大学校友会報第188号 平成8年7月31日発行)
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