はじめに
社会民主主義的な改革要求は既存の政治システム下では無理だということで、疑似的な改革推進者としての軍部への国民の人気が高まっていったのです。そんな馬鹿なという顔をしていますね。しかし陸軍の改革案のなかには、自作農創設、工場法の制定、農村金融機関の改善など、項目それ自体はとてもよい社会民主主義的な改革項目が盛られていました。
ここまでで述べたかったことは、国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない夢を疑似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現われないとも限らないとの危惧であり教訓です。
序章 日本近現代史を考える
中国の蒋介石に対して「国民政府を対手とせず」(近衛文麿)
「今次事変は戦争に非ずして報償なり。報償のための軍事行動は国際慣例の認むる所」(中支那派遣軍司令部)
報償という考え方をわかりやすく説明しますと、相手国が条約に違反したなど、悪いことをした場合、その不法行為をやめさせるため、今度は自らの側が実力行使をしていいですよ、との考え方です。
けれども、当時の国際慣例で認められていた「報償」の例は、もっともっと軽い意味のものでした。……。ですから、一九三七年八月から本格化した日中戦争が、報償の概念で認められる範囲の実力行使であったはずはありません。
日中戦争→「一種の討匪戦」(近衛のブレーン)
いずれにしても、日中戦争期の日本が、これは戦争ではないとして、戦いの相手を認めない感覚を持っていたことに気づいていただけばよいのです。ある意味、二〇〇一年時点のアメリカと、
一九三七年時点の日本とが、同じ感覚で目の前の戦争を見ている。
歴史の面白さの神髄は、このような比較と相対化にあるといえます。
この、国家を成り立たせる基本的な秩序や考え方という部分を、広い意味で憲法というのです。
太平洋戦争における日本の犠牲者の数は、厚生省(当時)の推計によれば軍人・軍属・民間人を合わせて約三一〇万人に達しました。
長谷部先生は、この本(『憲法とは何か』岩波新書)のなかで、ルソーの「戦争および戦争状態論」という論文に注目して、こういっています。戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の憲法に対する攻撃、というかたちをとるのだと。
国際連盟の破綻に際して
「愚かなために、あるいは邪悪なために、人々は正しい原理を適用し得なかったというのではなく、原理そのものがまちがっていたか、適用出来ないものであったのだ。」(E・H・カー)
ですから、歴史を見る際に、右や左に偏った一方的な見方をしてはだめだというのは、そのような見方ばかりしていますと、頭のなかに蓄積された「歴史」のインデックスが、教訓を引き出すものとして正常に働かなくなるからです。
*蓄積された「歴史」のインデックス → 積習
これを逆にいえば、重要な決定を下す際に、結果的に正しい決定を下せる可能性が高い人というのは、広い範囲の過去の出来事が、真実に近い解釈に関連付けられて、より多く頭に入っている人、ということになります。
鈴木貫太郎首相が記者団に「ポツダム宣言黙殺、戦争邁進」と談話を発表していようがいまいが、アメリカ側(トルーマン副大統領)は原爆投下のゴーサインを、ポツダム宣言発出の段階で出していたということです。
アーネスト・メイ『歴史の教訓』(The Lessons of the Past)
よって、ソ連の戦後に予想される影響力を牽制するためにも、ドイツや日本の降伏条件を緩和すべきであった、こうアメリカの政策を批判(メイ)しました。
1章 日清戦争 「侵略・被侵略」では見えてこないもの
「日本と中国にとって、二国間の均衡をどちらがリードするか、それを巡る長い競争は、文化的にも社会的にも経済的にも、また「知の領域」においても争われたのだった。」(ウォーレン・F・キンボール)
……、政府は商法と民法の編纂を急ぎ、一八九〇(明治二十三)年には、商法、民法、民事・刑事訴訟法が公布され、法治国家としての体裁が整えられます。……。結局、民法は一八九八年七月から、商法は一八九九年六月から実施されました。
東アジアを舞台としたロシアの南下を、イギリス帝国全体としての利益にはならないと考えていたイギリスは、日本に対しては、とにかく列国間の対立や紛争に巻き込まれないだけの能力を持つように、すばやく法典編纂を行ってくださいね、とのスタンスで臨みました。じじつ、大日本帝国憲法は一八八九(明治二十二)年に完成します。
華夷秩序=朝貢貿易
華夷秩序
「世界、そして文明の中心である中国は、周辺地域に対して、「徳」を及ぼすものであり、その感化が人々に及ぶ度合いに応じて形成される俗人的秩序なのだ」(茂木敏夫)
*華夷秩序=朝貢貿易→中華思想
琉球は清国に朝貢していましたので、清国の華夷秩序に取り込まれていたわけです。しかし、同時に琉球は日本の薩摩藩にも朝貢していました。国境という線に囲まれた土地をイメージしますとこれは許されないことですが、琉球国ではなく琉球王が清国皇帝に対して朝貢儀礼をとっていると考えることで、両続関係(清国にも薩摩にも属する関係)が可能となるのです。
列強にとってみれば、朝貢体制のもとで李王朝や安南と話がしやすくなればこれは使わなければ損だということです。
中国と朝貢国との関係は、双方にとって軍事的に必要以上に負担がかからず、また、中国と朝貢関係にある国々と列強の間も、同じく必要以上に負担がかからない関係でした。
ある種大家さんのような役割を果たす機能を中国が持っていた。これは列強にとって便利でしょう。
日本的な列強への安心のさせ方(法治国家)と、中国的な列強への安心のさせ方(華夷秩序)が、一八八〇年代ぐらいまで両方あり得た。
列強が朝貢体制という安価な安全保障体制に便乗している間に、中国は少しづつ変わっていきます。この時の中心人物は李鴻章です。
*李鴻章は華夷秩序に飽き足らず軍事力による政策を推進、中国の近代化を推進
日清修好条約→国会開設の勅論→イリ条約→礼部の改革→壬午事変→甲申事変→天津条約(袁世凱)
中国のかわりに日本が朝鮮の中立を保障する、担保するという論理が出てきていることに注意しましょう。(山縣有朋とシュタインの出会いによって)
国会開設をこれだけ待ち望んでいるはずの民権派(板垣退助・愛国社)であっても、やはり先に条約改正だという。不平等条約を押し付けられて、国の主権が侵害されている、主権をどう取り戻そうかと考えた時に、商法と民法を頑張って作りますよということを、日本人があれほど考えたのは、国家の独立ということについて独特の強い気持ちを持っている人たちが、民権派の中でも多かったのだろうということがわかる。
そのとき、先生(岡義武)は、日本の民権派の自由民権思想と、ヨーロッパの、ルソー以来のデモクラシーの理論を比較し、ある違いに気づきました。日本の民権派の考え方は、どうも個人主義や自由主義などについての理解が薄いように思われる。この点はヨーロッパとは非常に違っている、こう気づきます。
どうして日本においては、民権派の考えのなかに、個人主義的、自由主義的思想が弱いのか、「国家の独立なければ個人の独立なし」ではないですが、どうも明治のはじめから、民権派は国権を優先していたような気がする、と岡先生は気づいたのでしょう。国家か個人かといったとき、自由主義的バックボーンがないと、時代状況によって、人々は、国家のなすことすべてを是認してしまうのではないか。
日本の場合、不平等条約のもとで明治国家をスタートさせましたから、自由だ民主だとの理想をいう前に、まずは国権の確立だ、という合理主義が前面に出てしまう、そのような見通しをまずはお話ししました。
不平等条約
江戸幕府が日米和親条約や日米修好通商条約で長崎、下田、箱館、横浜などの開港や在留外国人の治外法権を認めるなどの不平等条約を結ばされ、明治初期には条約改正が外交課題となっていた。一方で明治時代に入ると、朝鮮、中国に対して日朝修好条規や下関条約、「日清通商航海条約」など不平等条約を結んだ。(ウィキペディア)
日清戦争直前の言葉を拾うと、「韓国の独立を援護するための義戦」やら、「我が国の独立を守るための自衛戦争」やら、「開化と保守の戦争」やら、言いたい放題であります。
「彼等は頑迷不霊にして普通の道理を解せず、文明開化の進歩を見て之を悦ばざるのみか、反対に其進歩を妨げんとして無法にも我に反対の意を表したるが故に、止むを得ずして
事の茲に及びたるのみ。」(福沢諭吉「日清の戦争は文野の戦争なり」
福沢がいうのは、清国人は古い考えに囚われ、普通の道理を理解しない。朝鮮の改革に同意しないばかりかそれを妨害するので、日本はやむをえず、文明開化のために兵力に訴えるのだ、日本軍は文明を中国に知らしめるための軍隊なんだ、という論理構造になっています。
民権派や福沢が、日清戦争に双手をあげて賛成しているのを見ると、少し変な気分がしませんか。
――別に変とは思わない。当時の人々に、戦争に「反対する」、「反対できる」なんていう気持ちはなかったのでは……。(栄光学園生徒)
あっ。そういう答えは予想していなかった。こ、困りました(笑)
台湾総督府には、四万三八七〇名の日本人官僚がいました。
なぜ、日本において明治維新以降、まがりなりにも国家が安定するようになったかというと、地租改正ができたということもあり、歳入歳出、つまり予算案が組めることになったことがおおきい。これは大変な国家計画ですよね。
*この明治政府の歳入歳出は単式簿記であり、官僚の使い勝手がよい仕組みであって、国家破綻を招きかねない諸悪の根源である。
「条約改正の目的を達せんとするには、畢竟我国の進歩、我国の開化が真に亜細亜洲中の特別なる文明、強力の国であるという実証を外国に知らしむるに在り。」(外相陸奥宗光)
*陸奥は日本版中華思想だね
東学というのは、西学(キリスト教)に対して名づけられたもので、儒教を根幹として、仏教、道教、民間信仰が合わさった、当時の朝鮮の民衆宗教でした。
東学党の乱という突発的な事件が起こり、前に取り決めていた天津条約による両国の出兵があった。で、兵士をある一定の距離に置いて対峙していた状態で、外交の折衝がなされる。これが日清戦争直前の状況でした。このように見てくると、朝鮮政府の内政改革を進めるか進めないかについての日本側の主張はかなり強引なものでしたが、最終的には、朝鮮が「自主の邦」かそうでないかなどを清国が決める立場にある状態そのものを武力で崩してしまおう、と日本側は決意します。
清国は大国で強い、怖い国でした。そして近世紀までは文化の中心ですね。文人といえば神国や朝鮮の知識人だったわけです。日本の兵士たちは、中国の辮髪の兵士が、全然規格の統一されていない兵器で戦っているところを見て、ちょっと侮蔑感を抱く。中国に対する蔑視の感情が現われてくるという点では正しい。東アジア盟主意識の萌芽ですね。
戦争には勝ったはずなのに、ロシア、ドイツ、フランスが文句をつけたからといって中国に遼東半島を返さなければならなくなった。これは戦争には強くても、外交が弱かったせいだ。政府が弱腰のために、国民が血を流して得たものを勝手に返してしまった。政府がそういう勝手なことをできてしまうのは、国民に選挙権が十分にないからだ、との考えを抱いたというわけです。
2章 日露戦争 朝鮮か満州か、それが問題
ロシアを相手に戦争をした日本は、この戦争に、ぎりぎりのところで勝ちました。その結果、日本は、欧米をはじめとする大国に、大使館を置ける国となったのです。
日清戦争の結果、アジアからの独立がまずは達成され、日露戦争の結果、西欧からの独立も達成された、ということができるかもしれません。
「日本の為政者の間には、戦略的な思考とか、安全保障観の一致が広く存在していた」(M・ピ-ティ『植民地』)
日露戦争によって不平等条約の改正などが達成されるわけですが、戦争の結果として一番大きいのは、戦争の五年後の一九一〇(明治四十三)年、日本が韓国を併合し、植民地としてしまったことです。このことは、島国であった日本が、中国やロシアと直接接する韓半島(朝鮮半島)を国土に編入し、ユーラシア大陸に地続きの土地を持ってしまったことを意味します。日清戦争で日本が清国から奪った土地は台湾と澎湖諸島でしたから、獲得した植民地自体、どちらも島だったわけですので、この点、大きな変化といえるでしょう。
「日本の計画の核心は、異なるカテゴリーの軍、つまり、陸軍と海軍を協調させることに向けられていた。(ロシア将校スヴェーチン)
日本が遅れてきた帝国である一つの悲しさは、欧米に向けて語る戦争の正当化の論理と、自らの死活的に重要なものを説明する言葉がズレてしまうことです。
日露戦争中、中国は中立の立場をとっているのですが、日本軍がロシアと戦っているとき、中国側は日本にお金を寄付してくれます。(地方知事義捐金・ある将軍現ナマ・袁世凱上海銀二万両)
最も重要だったのは戦場(満州)における中国側の協力です。……。土地勘のある農民たちが日本軍の諜報のために働いてくれた。
日露戦争で日本はなにを獲得できたか。ポーツマス条約にはこうあります。
第二条 露西亜帝国政府は日本国が韓国に於いて政治上、軍事上及経済上の卓絶なる利益を有することを承認し、(日本は韓国を植民地化)
第三条 (露西亜帝国政府は満州放棄)
山縣内閣で被選挙権の制限をなくしたことが、日露戦争後の一九〇八年の選挙で、実はじわ―っと効いてくるわけです。
その(嫌われ者の)山県が商工業者、産業家、実業家たちが議会に登場してくる基盤をつくっていたというのはとても面白い。
日露戦後、増税がなされたことで、選挙資格を制限する直接国税一〇円を結果的に払う層が一・六倍になり、選挙権を持つ人が一五〇万を超えたこと、これが大切なポイントです。
3章 第一次世界大戦 日本が抱いた主観的な挫折
まずは戦死者と戦傷者の数を、世界と日本の場合とでくらべてみましょう。世界全体で戦死者が約一千万人、戦傷者が約二千万人出ましたが、日本の場合は青島攻略戦での戦死傷者が一二五〇人とだけ記録されています。
(第一次世界大戦で変わった事) まず、世界という点ではヨーロッパで長い伝統を持っていた
三つの王朝が崩壊してしまった。ロシア(ロマノフ朝)、ドイツ(ホーエンツォレルン朝)、オーストリア(ハブスブルグ帝国)がなくなりました。
日本では、原敬の政党内閣が誕生しました。
(第一次世界)戦争の影響の二つ目は、帝国主義の時代にはあたりまえだった植民地というものに対して批判的な考え方が生まれたことです。
委任統治の実態がその本質では植民地支配であったことも事実です。
日本は、日清戦争で台湾と澎湖諸島を、日露戦争では関東州(旅順・大連の租借地)と中東鉄道南支線(長春・旅順間)、その他の付属の炭鉱、沿線の土地を獲得し、さらに日露戦争の五年後の一九一〇(明治四三)年に韓国を併合しました。そして、第一次世界大戦では、山東半島の旧ドイツ権益と、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を得たのです。
(日本の植民地獲得は安全保障上の戦略に基づくが、欧米の帝国主義は商業的・社会政策的に植民地獲得を意図した。)
日本が批判をあびたのは山東問題のことです。日本は一九一四年八月、「中国に還付するの目的をもつて」といいながら開戦したのに、一五年五月、二十一ヵ条要求を袁世凱につきつけて、山東に関する条約というものを無理やりでっちあげた、と。中国に返還するためといってドイチから奪ったのに、結局、日本は自分のものにしてしまったとの、世界および中国からの非難が激しかったことがわかります。
……、ロシア革命を率いたボリシェビキのレーニンとトロツキーは、帝政ロシア時代の秘密外交文書などを暴露します。連合国のイギリスやフランスや日本が、いかに帝政ロシアとの間で、戦後の植民地の再分割などについて、えげつない取り決めをしていたのかをあばいてしまったのです。日本に関係することでいえば、山東半島の旧ドイツ権益や南洋諸島について、これは戦後に日本のものになると、英・仏・露・イタリアなどの諸国との間で密約が結ばれ、確認されていたのです。
(朝鮮の三・一独立運動について)
宇都宮(朝鮮軍司令官宇都宮太郎)は独立運動の要因を、日本が「無理に強行したる併合」に求め、併合後の朝鮮人への有形無形の差別に起因すると素直に書いていました。
日本軍が三・一運動の鎮圧に際して起こした残虐な事件の一つに、提岩里事件というものがあったのです……
「大恐慌を脱するためには、政府はどんなに赤字を出してもいいから政府の財政機能を通じた公共投資を積極的に行い、とにかく失業者がゼロになるまで需要を拡大しなさい。」(ケインズ)
同情は中国(顧維欽・ウィルソン大統領)にあるのはもちろんだといいなから、ロイド=ジョージは山東に関する日本の主張を是認したのです。
パリ講和会議で日本側が負った衝撃や傷は、一九三〇年代になってから、深く重くジワリと効いてくるのです。
4章 満州事変と日中戦争 日本切腹、中国介錯論
満州事変のほうは、一九三一(昭和六)年九月一八日、関東軍参謀(石原完爾)の謀略によって起こされたもので、日中戦争のほうは、三七年七月七日、小さな武力衝突をきっかけとして起こったものです。
満蒙のための武力行使は正当かという問いに対して、……。なんと八十八%の東大生が「然り」つまり「はい」と答えている。(一九三一年七月)
もともとは軍隊内部の犯罪摘発のために置かれ、陸軍大臣の管轄に属します。しかし、一般国民に対して警察以上の力をふるうことがありました。というのは、憲兵は軍内部だけではなく、に国民に対して司法警察権を持っていたからです。憲兵は司法大臣の指揮も受け、治安警察法や治安維持法など国民の思想を取り締まる権限も持っていたということです。この憲兵という存在が、昭和期の言論をより狭くしていくのです。戦時下の狂信的な面が語られるとき、憲兵の存在とともに語られることが多いです。
「日支事変」(当時の呼称)は、資本主義と共産主義の支配下にある世界に対して、日本などの「東亜」の国々が起こした「革命」なのだ」(大蔵省預金部課長毛里英於菟)
ある国の国民が、ある相手国に対して、「あの国は我々の国に対して、我々の生存を脅かことをしている」あるいは、「あの国は我々の国に対して、我々の過去の歴史を否定するようなことをしている」といつた認識を強く抱くようになっていた場合、戦争が起こる傾向がある、と。(長谷部恭男『憲法とは何か』岩波新書)
世の中を席巻するフレーズ、「満蒙は我が国の生命線である」(松岡洋右)とやったのです。満州事変の九ヵ月も前、時の浜口雄幸内閣の外相・幣原喜重郎のすすめる協調外交への批判演説で使いました。
この満州、東三省地域を、北はロシア、南は日本と、勢力範囲で分けるようになったきっかけが、日露戦争でした。
まあ、野蛮な時代ですね。清朝、つまり中国が主権を有する土地を、ロシアと日本とで勝手に分けてしまう。
関東庁『満蒙権益要録』
そのようなとき日本側は、この地域にはこれだけの経営の実態があるのだといって、つまり、列強の目を意識して既成事実を急いででっちあげることをしばしば行いました。
中国の状況はどういうものだったかというと、一九一一年に辛亥革命が起こって清朝が倒れる頃です。清朝が倒れるとき、清朝と西で接していた外蒙古、のちのモンゴル人民共和国、今のモンゴルは、ロシアの支援を受けながら、清朝の支配から独立する動きを示します。
ここで満鉄会社について説明を加えておきましょう。満鉄というと、鉄道の管理にあたる小さな会社のようなイメージがありますが、それは違います。この会社は、一九〇六(明治三十九)年六月、まずは鉄道運輸業を営むために設立されましたが、同じ年の八月、運輸業の他に、鉱業、ことに撫順と煙台の炭鉱採掘、水運業、電気業、倉庫業、鉄道付属地の土地・家屋の経営などを政府から任されることになりました。(満蒙への投資のうち、八十五%が国絡み)
一九三五年八月、この頃は陸軍内の派閥争い(統制派と皇道派)が頂点に達していたのですが、……。
木曜会(次期戦争研究勉強会)に集まった課長級の中堅層などは、事件を起こすのに適したポストに自らの同志たちを配することに意を用いて、満蒙を中国国民政府の支配下から分離させようとはかりました。
国民のなかにくすぶる中国への不満を条約論・法律論でたきつけますが、実のところ、軍人たちにとって最も大切な問題は、対ソ戦と対米戦を戦う基地としての満蒙の位置づけだったのです。
事件の翌日、九月十九日の閣議において、若槻首相は南次郎陸相に向かい「正当防禦であるか。もししからずして、日本軍の陰謀的行為としたならば、我が国の、世界における立場はどうするか」と詰めより、事件の不拡大方針を現地軍に伝えるよう指示します。
なぜ内閣は腰が引けたのか。つまり、軍を強く抑えられなかったのか。現在の研究からわかっているのは、若槻内閣が出先軍の造反に対して、きっちりと結束していなかったことが一つ挙げられます。
今の世のなかは、特定の思想信条を持っているからといって、国家や国家機関によって危害を加えられたり拘束されたりすることは、まず、ないといってよいでしょう。現在「その筋」といえば、暴力団の事を指しますが、当時は、軍、そのなかでも海軍ではなく陸軍と警察を指すのが一般的でした。つまり、戦前においては、「その筋」の人々がなにをやらかすのかわからない、怖い存在であると思われていた。
十月事件(井上元蔵相殺害)、五・一五事件(犬養首相暗殺)
「前門の虎、後門の狼」の状態で、前には紅軍、後ろには広東派の軍隊、そして関東軍までもが満州事変を起こしたとなれば、誰でも泣きたくなります。逆境に強い蒋介石でなければやっていけません。(蒋介石「公理に訴える」方針で国際連盟に委ねる)
リットン調査団報告書
「中国は日本の経済上の利益を満足させるべきだ」
「日本は中国の主権下にあることを認めなさい」
「満州国」という国家、これは満州事変後、三二年三月に独立宣言を発した国家でしたが、これは独立を求める住民の要求から、つまり民族自決の結果、生みだされたものではないと。日本の関東軍の力を背景に生みだされた国家であるとも書かれていました。(リットン調査団報告書)
つまり、ロシアが悪いのは立憲的な憲法や内閣制度や国民の自由がないからで、そのような国は日本に負けたほうがロシア国民のためだといっているのですね。(吉野作造の日露戦争正当化論)
「渇しても盗泉の水は飲むな」
三・一五事件、四・一六事件(田中儀一内閣による戦争反対勢力の治安維持法違反)
熱河侵攻計画という、最初はたいした影響はないと考えられていた作戦が、実のところ、連盟からは、新しい戦争を起こした国と認定されてしまう危険をはらんでいた作戦であったことが、衝撃的に明らかにされてゆく。天皇も首相も苦しみますが、除名や経済制裁を受けるよりは、先に自ら連盟を脱退してしまえ、このような考えの連鎖で、日本の態度は決定されたのです。
このようなときに、「農山漁村の救済は最も重要な政策」と断言してくれる集団が軍部だったわけです。
陸軍すごいですよ。……。政治や社会を変革してくれる主体として陸軍に期待せざるをえない国民の目線は、確かにあったと思います。
そのうえで、今後の戦争の勝敗を決するのは「国民の組織」だと結論付ける。(陸軍統制派の陸パン)
胡適は『アメリカとソビエトをこの問題に巻き込むには、中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、二、三年間負け続けることだ』といいます。このような考え方を蒋介石や汪兆銘の前で断言できる人はスゴイと思いませんか。
こういう日本的な形式主義ではなく、胡適の場合、三年はやられる、しかし、そうでもしなけければアメリカとソビエトは極東に介入してこない、との暗い覚悟を明らかにしている。一九三五年の時点での予測ですよ。なのに四五年までの実際の歴史の流れを正確に言い当てている文章だと思います。の
「今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は「日本切腹、中国介錯」というこの八文字にまとめられよう」(中国の駐米国大使胡適)
汪兆銘は、三五年の時点で胡適と論争しています。「胡適の言うことはよくわかる。けれども、そのように三年、四年にわたる激しい戦争を日本とやっている間に、中国はソビエト化してしまう」と反論します。この汪兆銘の怖れ、将来への予測も見事あたっているでしょう? 中華人民共和国が成立する一九四九年という時点を思い出してください。
「蒋介石は英米を選んだ、毛沢東はソ連を選んだ、自分の夫・汪兆銘は日本を選んだ、そこにどのような違いがあるのか」(汪兆銘夫人)
5章 太平洋戦争 戦死者の死に場所を教えられなかった国
人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦う(南原繁)
こうした絶対的な差を、日本の当局はとくに国民に隠そうとはしなかった、むしろ、物的な国力の差を克服するのが大和魂なのだということで、精神力を強調するため国力の差異を強調すらしていました。国民をまとめるには、危機を扇動するほうが近道だったのでしょう。
歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。……。爽やかな気持であった。……。わが日本は、東亜建設の美名に隠れてよわいものいじめをするのではないかと今の今まで疑ってきたのである。……。今や大東亜戦争を完遂するものこそ、われらである。(竹内好「大東亜戦争と吾等の決意」)
「今日は人々みな喜色ありて明るい。昨日とはまるで違う」(伊藤整十二月九日の日記)
「キリリと身のしまるを覚える」〈山形の小作農阿部太一〉
ただ、この腹案(東条戦争終末促進)の内容というのは、「他力本願」の極致でした。
また、イギリスが屈服すれば、アメリカも戦争を続けたいと思わないはずということで、希望的観測をいくえにも積み重ねた論理でした。
中国側が強かった理由は、もちろん、三一年の満州事変以来、日本側のやり方に我慢がならなかったという抗日意識の高まりがまずはあります。(それ以外にはドイツの協力)
ドイツ人軍事顧問団に率いられた中国軍は、ダイムラー・ベンツ、ベンツですよ。べンツのトラックで運ばれて戦場に赴いていたのですから、日本軍の持っていた国産の軍用トラック(いすゞ TU10型?)などよりずっと性能がよかったはずですね。
ソ連は、日本側との軍事的な対立は早晩避けられないと考えていましたが、自らの国家が対日戦争の準備ができるまで、その時間かせぎを中国にやってもらえるならば、このくらいの軍事援助はお安い御用という感じだったと思います。
英米は中国の各都市に巨額の経済的権益を持っている列強でしたから、日本側に中国との貿易を独占されることは我慢ならないことでした。三八年十二月、アメリカは中国に対して二五〇〇万ドルの借款を行います。
一方、三九年一月、アメリカは日本に対し、航空機とその部品の対日輸出を禁止し、同年七月二十六日には、日米通商航海条約の破棄を通告しました。
確かに日本人には少しひがみっぽいところがある、いじけやすい(笑)> ソ連、アメリカ、イギリスが中国に援助しているのを見ると頭に血がのぼる。どうして、みんな中国だけ援助するのか、と。むろん、日本が戦争をしかけて、中国の対日政策を武力によって変えようとしたことからすべては始まっているわけですが、それは日本側には自覚されません。
中国の後は仏印、などと日本はよくもまあ、次から次へと他国の領土を侵略しようと考えますね。
「自分は日本よりも共産党を怖るべきものだとかんがえている。」(蒋介石)
ヨーロッパの戦争にずっと不介入でいればよかったのですが、ドイツ軍の快進撃を前に日本側に欲が出てくる。東南アジアにはヨーロッパの植民地がごろごろしている、植民地の母国がドイツに降伏した以上、日本の東南アジアへの進出をドイツに了解してもらわなければならない。こう考えるのです。また、ドイツ流の、一国一党のナチス党による全体主義的な国家支配に対する憧れが日本にも生まれてくる。
チャンスがくれば南方に武力行使し自給自足圏を得るとの計画です。
戦争への道を一つひとつ確認してみると、どうしてこのような重要な決定がやすやすと行われてしまったのだろうと思われる瞬間があります。
具体的には、外務省と参謀本部が急に主張しだした北進論を抑えるために、南部仏印へ進駐しましょうと声をあげて、南進に言及するようにしたのです。かれら、陸軍省と海軍の考えでは、南部仏印進駐をしたからといってアメリカがなにか強い報復措置に出るとは全く考えていなかったのですね。
アメリカとイギリスは、四一年九月二十八日、ソ連に対して軍需物資を送る協定をソ連と結びましたが、これも、とにかく四二年春までソ連戦線が持ちこたえてくれればよいとの考え方でした。四一年夏のアメリカにとって、ソ連が元気づけられることであればなんでもやったわけです。
つまりアメリカは、日本の南進に対して強く報復することで、ソ連が日本を心配しないで済むように、そのために強い反応を示したといえます。
しばしの間の平和の後、手も足も出なくなるよりは、七割から八割は勝利の可能性のある緒戦の大勝に掛けたほうがよいと軍令部総長は述べていました。……。今から考えれば日米の国力差からして非合理的に見えるこの考え方に、どうして当時の政府の政策決定にあたっていた人々は、すっかり囚われてしまったのでしょうか。
軍部が、三七年七月から始まっていた日中戦争の長い戦いの期間を利用して、こっそりと太平洋戦争、つまり、英米を相手とする戦争のためにしっかりと資金を貯め、軍需品を確保していた実態を見なければなりません。同年九月、近衛内閣は帝国議会に、特別会計で「臨時軍事費」を計上しています。
*・授業では・石井氏の娘である石井ターニャ氏が登場し、「当時の一般会計は八〇兆円に対して、特別会計は三六〇兆円だった。税収は四〇兆円だった」と指摘した。
・日本国の会計は江戸時代のような単式簿記でその理由は複式簿記ではなんちゃってユダヤがカツアゲしにくいからおこずかい帳のようなドンブリにしてある訳である。
(http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1885154.html)
*A そうでした。ところで、〈アフリカ諸国・北朝鮮・日本〉で、なにを想像しますか。
Q3 えっ、なんだろう、核保有じゃないし、飢餓国……でもないし、なんだろう。
A ……実は、これは国の会計制度が単式簿記の国々です。未開国なんですよ、日本のインフラは。国民として恥ずかしい限りです。(高野義博『Q&A確定拠出年金入門』)
特別会計というのは、戦争が始まりました、と政府が認定してから(これを開戦日といいます)戦争が終わるまで(これは普通、講和条約の締結日で区切ります)を一会計年度とする会計制度です。
三七年に始まった日中戦争からの特別会計が帝国議会で報告されるのは、なんとなんと四五年十一月でした。(*おお、なんとなんと八年が一会計年度!) 太平洋戦争が終結した後、ようやく日中戦争から太平洋戦争までの特別会計の決算が報告されるという異常な事態です。軍部とすれば、日清戦争や日露戦争の頃と違って、政党の反対などを考えなくて済みますから、こんないい制度はないですね。
この考え方(奇襲作戦)を海軍全体、そして政府全体の政策にまで推しすすめたのは、山本五十六連合艦隊司令長官だったといわれています。
ソ連が世界の共産化を真面目に考えていると確信した彼ら(カナーリスやリッベントロップ)は、防共、反共、つまり共産主義打倒を真剣に考えはじめます。ナチスというと反ユダヤ政策にすぐに目が行きますが、反共という側面を見落としてはいけません。
日本は、やはり地政学的に見てソ連に対する天然の要害(要塞)だったからです。(ドイツの心変わりドイツの日本接近)
日独の接近は中国とソ連の接近をもたらす。その裏面には、共産主義をどうするかというイデオロギーと地政学があった。持久戦争を本当のところで戦えない国であるドイツと日本であるからこそ、アジアとヨーロッパの二か所からソ連を同時に牽制しようと考える。アジアの戦争である日中戦争が第二次世界大戦の一部になってゆくのは、このような地政学があったからです。
「日本はこういう理由で、そもそも戦争ができない国です。だから戦争など考えるのはやめてしまいましょう」(海軍大佐水野廣徳)
「通商の維持などは、日本が非理不法を行わなければ守られるものである。……。よって日本は武力戦には勝てても、持久戦、経済戦には絶対に勝てない。ということは日本は戦争する資格がない。」(水野廣徳)
「軍需原料の大部分を外国に仰ぐがごとき他力本願の国防は、あたかも外国の傭兵によって国を守ると同様、戦争国家としては致命的弱点を有せるものである。」(水野廣徳)
「反逆児知己ヲ百年ノ後ニ待ツ」(水野廣徳)
この徴用令(一九三九年)によって植民地からも日本国内の炭鉱、飛行場建設などに多くの労働者が動員されました。朝鮮を例にとれば、四四年までに、朝鮮の人口の一六%が、朝鮮半島の外へと動員されていた計算になるといいます。
日本という国は、こうして死んでいった兵士の家族に、彼がどこでいつ死んだのか教えることができなかった国でした。
ただ、とても見識のあった指導者もいて、その例として大下条村の佐々木忠綱村長の名前が挙げられます。佐々木村長は、助成金で村人の生命に関わる問題を容易に扱おうとする国や県のやり方を批判し、分村移民に反対しました。このような、先の見通しのきく賢明な人物もいたのです。
自国の軍人さえ大切にしない日本軍の性格が、どうしても、そのまま捕虜への虐待につながってくる。
この戦線(ニューギニア)では戦死者ではなく餓死者がほとんどだったといわれるゆえんです。
――……。でも、個性的で面白い人物がたくさん登場して、その人の考えをたどりながら、大きな時代の動きを追っていけるのが面白かった。とくに胡適は強烈でした。
むしろ、ここで私が注目したいのは「あなたは、先の大戦当時の、日本の政治指導者、軍事指導者の戦争責任問題をめぐっては、戦後、十分に議論されてきたと思いますか、そうは思いませんか」という問いに、「全く議論されていない、あまり議論されていない」という回答が五割を超えていることです。
歴史をつかさどる女神クリオは、女神のうちでも最も内気で控えめで、めったに人にその顔を見せなかったといいます。(E・H・ノーマンに『クリオの顔』という歴史随想集があり、胃兪波文庫で読めますのでどうぞ)。
そのようなときに、類推され想起され対比される歴史的な事例が、若い人々の頭や心にどれだけ豊かに蓄積されファイリングされているかどうかが決定的に大事なことなのだと私は思います。多くの事例を想起しながら、過去・現在・未来を縦横無尽に対比し類推しているときの人の顔は、きっと内気で控えめで穏やかなものであるはずです。
*平成二十八年十月六日抜粋終了
*印は、抜粋者のコメントです。
*昭和十六年八月生まれの抜粋者にとって、このような通史は衝撃でした。
*浮遊していた断片が、事の前後が解明されたのにともない、物語となりました。「蓄積された「歴史」のインデックス」(加藤)が単なる断片を救い出しました。
*日本の陸海軍軍人の素養・インテリジェンスは視野狭窄の典型であって、東大卒の落とし穴にどっぷりのめり込んでいた。
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