今日は新聞休刊日。月に一度の関係従業者の休息をはかるためというのだが、日毎の生活のリズムの中で、新聞を広げる時間帯が定着している者にとっては、ポッカリ穴が空いた感じ。
特に老生ごとき隠居の身には、このリズムがかなり重要なのである。
かって現役の頃には通勤、帰宅の繰り返しはあっても、もろもろの仕事や私用が絡んで必ずしも毎日が同一のリズムで進むわけではなかった。むしろ不規則なのが常態とも言えた。
その不規則性が、かえって生活の単調さを破って、三十数年の酷使に耐えるエネルギーと化していたのであろう。今にして思えば良くぞ働き続けたものだと自分で感心している。
それが今は全く様相が変っている。強制されて働く要素はまず無い。あえて有るといえば、愚妻の言付けや孫の頼みごと、これとて知らんぷりすればすむこともあるわけで。
だから毎日どう過ごすかは自らの気持の赴くがままということになるのだが、そういうときに一定のリズムが生まれてきてこそ、安んじて一日が終わるのである。気侭とは言うものの何をどうするかに関して悩みがあっては困るのだ。ほかに障りのないことでないと摩擦が生まれる。
結局自分のやることに関してキマリが生まれ、順序が立ち、流れが定まってくるのが隠居生活のリズムなのである。これが乱されると極めて不安定な情緒が生じる。
今日は新聞を読まなかった。ただそれだけのことと言うなかれ。
特に老生ごとき隠居の身には、このリズムがかなり重要なのである。
かって現役の頃には通勤、帰宅の繰り返しはあっても、もろもろの仕事や私用が絡んで必ずしも毎日が同一のリズムで進むわけではなかった。むしろ不規則なのが常態とも言えた。
その不規則性が、かえって生活の単調さを破って、三十数年の酷使に耐えるエネルギーと化していたのであろう。今にして思えば良くぞ働き続けたものだと自分で感心している。
それが今は全く様相が変っている。強制されて働く要素はまず無い。あえて有るといえば、愚妻の言付けや孫の頼みごと、これとて知らんぷりすればすむこともあるわけで。
だから毎日どう過ごすかは自らの気持の赴くがままということになるのだが、そういうときに一定のリズムが生まれてきてこそ、安んじて一日が終わるのである。気侭とは言うものの何をどうするかに関して悩みがあっては困るのだ。ほかに障りのないことでないと摩擦が生まれる。
結局自分のやることに関してキマリが生まれ、順序が立ち、流れが定まってくるのが隠居生活のリズムなのである。これが乱されると極めて不安定な情緒が生じる。
今日は新聞を読まなかった。ただそれだけのことと言うなかれ。
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