アマチュア哲学者で

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反LGBTQ

2023年07月14日 18時53分19秒 | 社会
 現今、世界でも日本でもLGBTQの運動が一部で活発化している。わたくしは反LGBTQの立場からその運動に反対する。自分はジェンダー的に正真正銘の男性だが、いまだに独身なのでLGBTQのQに属するかもしれない。自分で自分の首を絞めているわけではないが、そしてGやBやTではない。異性に対する性欲はある。だが、それを充足させる積極的な行動力がないだけだ。消極的性格が禍いしている。その性格の身体的根拠はある。
 LGBTQ運動に賛同したらGBTと見なされるリスクがあり、実体はそうじゃないのだから迷惑だ。主観的にいってGBTは結構気色悪い。変態だと思える。本当に近所にいてほしくないし、TV番組に出演しているのも見たくない。かまタレントに嫌悪感あり。「彼」らかもしくは「彼女」らがあえてTV番組に出演する必要性が認められない。
 Bは欲張りだと批判しておく。Tの問題は身体的性徴をどうするかという具体策を検討しなければならない。
 だが芸術とか古典芸能分野では反感はない。現代の洋楽ロック界でも中性的魅力で優れた楽曲を発表しているアーティストが少なからず存在している。
 人口が減少している社会において同性婚や同性愛を公認したら、人工拡大にますます不利になるように思われる。だから隠れてコソコソやってゆけというのも横柄な主張で、日陰者のように生きていけというのも酷だ。
 自分の余生として孤独主義者でやってゆきたい。孤独や孤立を恐れず自殺をしないし、他人を攻撃誹謗中傷しない。ただ上記の嫌悪感だけは表明しておく。


続篇『物理学はいかに創られたか(上)』

2023年05月17日 11時14分05秒 | 物理学
 
 上掲の本はとりあえずおいといて前回の続きからだ。
 彼女との一件は自分の記憶違いの可能性もある。彼女と自分がペアを組む必然性が全く思い出せない、強いて挙げれば隣席同士だったぐらいだが記憶がない。だから3人か4人ぐらいのグループを組まされて彼女が代表して課題のレポートを提出したという事もありえる。自分は情けないが、そのおこぼれをちょうだいしたのだ。だとすると他メンバーの存在だが皆目、記憶がない。グループ活動の記憶がない、何せ悪いことに放置していたのだ。しかしこれらの事実は紹介本の内容と無関係なので、これ以上掘り下げないでおこう。
 1力学的自然観の勃興
 物理的常識が説明されている。慣性の法則、ざっくりいって物体は他から何の力も受けなければ同じ状態を続けるそうである。いわく等速直線運動、円運動、エネルギー保存則、質量保存則、万有引力則などが紹介される。これらはなるほどと納得できる。エネルギー=質量ともいえる。
 2力学的自然観の凋落
 ここで電気磁気光現象がとりあげられる。これらの現象は従来の古典的力学では説明できない。
 3場・相対性(一)
 この書のメインだろう。場の理論が説明される。この章まで読めば電波は電磁波であり、光は電波であり(波長の違いだけ)、この宇宙空間はその場であることがわかる。媒
体の有無にはかかわらない。空間はそんな性質を持っているのだと理解するしかない。磁石には磁力線と磁場が付随している。
 光、電波はエネルギーとしてそれが空間を伝わってゆく。電磁波というのは電場磁場電場磁場電場と互いに変換して光速で伝わってゆく。ちなみに光速はこの世の最高速度で何物も突破できない、現実に。それと光源の運動は光速に影響を及ぼさない、光速度一定則。これは光も場で生起しているからだろう。
 重力も場で発生している。物体が存在すれば重力場も存在していると理解しても大きな間違いではないだろう。しかし重力の特殊性は引き合う力だけで反発する力の存在が認められないのだ。反重力の存在が確認されないのは反物質の存在が確認されないのと軌を一にしているのではないか。即ち反物質を創れば反重力も創れて、魔法のじゅうたんも実現できそうだ。



物理学はいかに創られたか(上)

2023年05月01日 21時07分20秒 | 歴史
  この本はぼくが大阪府立布施高校生だった時、物理学科目のサブテキストに当時の物理学教師から指定された必読文献だった。その教師の名前は忘れている。しかしその教え方の的確性は覚えている。
 その当時ぼくは高校の勉強を一切放棄していた悪い生徒だった。この本を読んでレポートを作成提出しなければならない課題を負わされた、ある一人の女子生徒と共同作業で。この女性というのが今でもまじまじと覚えているのだが、絵に描いたような堅物だった。おとなしくてひかえめで女性らしい性格なのだが地味な堅物だった。ルックスは十人並でぶ細工ではなかった。
 だから相手にせず、うっちゃっておいたら彼女が一人で作成して、ぼくとの連名で提出してくれた。ああ何という親切な女性だったんだ。名前も覚えていない。それでぼくの物理学の合格点は取れたと後から、当の教師から知らされた。
 そんないわくつきの岩波新書を最近読みたくなってじっくり通読した。自然科学の歴史は大学の教養課程講義によって好きになっていた。そのテキストを再読したいが正式な書名も出版社名も覚えていない。ところで数式は好きじゃないし自身の理解がおぼつかない。趣味で化学の歴史はアイザック・アシモフの同名の筑摩文庫で読んでいる。まずまず面白かった。天文学の歴史はコリン・ウイルソンの大判ハードカバーで読んでいる。この作家は無茶苦茶博覧強記だ。
 タイトルの新書は上下2巻で下巻ではアインシュタインの相対性理論が取り上げられている。さすがに高校ではそこまで必修ではなかった。
 さて上巻の感想文だが疲れてきたので次回に譲る、楽しみに待っていてください。しかしぼくの高校時代は最低だったなあ。もうちょっと真面目に勉強していたら、その後の人生は変わっている。こんな思い出話は書けなかった。
 岩波新書では高校世界史の授業で『中国の歴史(中)』を教材にしたこともあった。これには自分が中心人物を演じた実に嫌な思い出がある。今でもトラウマが残っている。この出来事は書いても可だが、意欲的に書けない。

「死は存在しない」田坂広志著の読後感

2023年03月27日 20時25分10秒 | 哲学
 
  2022年12月25日6刷発行本を読んだ。光文社新書である。新書という形式上、内容量は限定的だ。主テーマの入門書的紹介しかできない。これが選書版なら内容ヴォリュームが2倍ぐらいになるのではないか。読みごたえがあって説得力も増す。いかんせん、これは新書だから一気に通読できるがその主張の皮相的理解にとどまる。
 著者は1974年東京大学卒業と奥付にのっていて、高い知性の持主と推定される。この著作で大胆な仮説が述べられていて、そこに現代的科学根拠があるのが示されている。
 わたくしの何か月前の読後感をありていにいえば、あの世は存在する事が説明されている。死後の個人の魂が物理性質を変えて存在する事が説明されている。その場がゼロポイントフィールドである。ここは無限大の許容量があり、永遠に存在し、実は過去と未来のすべてのこの宇宙の出来事が存在しているところなのだ。すべての未来もすでに存在している。この記録がアカシア記録であり、書中では引用されていないが心霊学で有名なブラヴァツキー夫人が19世紀に唱えていた。
 唯識仏教でいう阿頼耶識の実在も説明されている。量子科学の理論からゼロポイントフィールドが導き出されるのだが、人の魂のその存在根拠が科学的にどう説明されていたのかはわたくしは忘れていた。
 そうだ目次を見て思い出した。個人の意識がゼロポイントフィールドに一体として死後も残存するのだ、自律性をもって。しかしその個人の意識も永遠に存続するわけではない。ついには一つの宇宙意識に吸収されてしまう。だけどそれは極楽天国なのだ。
 あくまでこれらの説明は仮説なのだが、最先端の物理科学的根拠によっているので充分説得力がある。わたくしは無神論無宗教主義で死んだら永遠の無だと思っていたが、ひょっとしたら違うかもしれないと自己の死に、安堵感を少しもった。
 本当に量子物理学では常識外(因果関係に反する)の量子の様相が実証されている。



ヘーゲル哲学雑感その2

2023年02月13日 21時21分11秒 | 哲学
 自分の内面と外面の分離に悩んでいた時、職場の先輩S氏は本質は現象すると教えてくれた。どんな職場だ。そう左翼系の組織団体の職場だった。後から知ったが、これは内面の外化である。
 客観と主観の分裂に長い間、悩んでいた。職場の情況について上司に訴えるとそれはきみの主観にすぎないと一蹴された。客観を獲得するにはどうすればいいのか。
 その解答がやっと得られた。久々に有斐閣新書「ヘーゲル小論理学入門」を再通読して。
 主観を客観に一致させる過程が認識で、客観を主観に一致させる過程が実践とされる。という事は主観と客観の統一とは実践認識である。実践して得られた認識が真とされる。
 何せヘーゲルは対立するあらゆる観念を統一して概念化する。
 本質は不変だが、本質と現象が統一されて現実となる。必然性は可能性と現実性の統一です。理念は主観的概念と客観世界の統一です。家族と市民社会の統一が国家です。
 魂と肉体の統一が生命です。生命と認識の統一が絶対理念となる。意志は実践的理念です。
 毛沢東はその哲学として「矛盾論」「実践論」を著している。ヘーゲルマルクスレーニン主義の中国的適用発展として読むことができる。
 実践とは真理認識を獲得する道とされている。具象的に例えていえば、リンゴの味はいくら議論してもその真理は得られない。その目の前のリンゴを一口かじってはじめてその味が判る。それが実践的真理だと。
 ヘーゲルにたちかえらねばならない。
 運動と活動の違いについて若い頃わからなかった。運動の高次形態が活動だった。事柄を現実化する運動を活動という。
 思い出した。あの先輩S氏は、筆者が労働でしんどくてもう限界ですと嘆いた時、限界を制限として突破するとうそぶいた。これって弁証法だと解るが言葉遊びの気がする。この弁証法の法則を労働者に適用すると過労死する場合もあるのではないか。
 正反合の弁証法の内容として、きわまった量から質の転換がいわれているが、これはまさに核エネルギーの真理をとらえている。物体の質量という量が莫大なエネルギーという質に転換されるのだ。