フランスの有名な作家、哲学者。無神論の実存主義を説いた。これに関してはニーチェの後継者か。あの神は死んだと唱えて反キリスト教の論陣を張った。この人は最後は狂気を発病して死んでいるので、全然尊敬できない哲学者だが、一般受けは至極良い。
わたくしの尊敬するサルトルは斜視だった、生前写真で見る限り。本人はかなりルックスでコンプレックスを生涯もっていたと推測される。
かれは大文学者であり、『自由への道』『嘔吐』などの作品を発表してノーベル文学賞を授与されたが断った。随分過去の事でわたくしはその理由を知らない。長いノーベル賞の歴史の中で受賞を断ったのはあと一人しかいないはずだ。かれはノーベル文学賞の権威を否定したことになる。スケールは小さいが日本では大岡昇平氏が文化勲章を辞退している、同氏の作品『俘虜記』からして納得できる。
あの反権力反権威で知られるボブ ディランでも受けている。現代のどこかの国の訳の判らん小説家の態度と大違いだ。
さて本題の哲学家としてのサルトルだが、実存主義で一時代を築いた。その入門書として『実存主義とは何か』が人文書院から発刊されている。若い頃わたくしは一読して、はまった。実存主義はヒューマニズムであると論じられているがその論拠は忘れた。モラルの根拠をどこに求めるかという問題だと思う。
今思い出した。個人のすべての行為を全人類的に普遍化する。すなわち道徳は実践行為を問われるが、何かしても全人類の行為とみなす。するとあなたは不道徳な事はできなくなる。たとえば吸い殻のポイ捨て、他人の家の前の公共道路に。こんな事が万人に認められたら迷惑この上ない。つまりあなたの一行為が全人類的に許容されるかどうか考えて、その行為をするかどうか決断する。これが無神論実存主義者のモラルである。だからヒューマニズムに反する事はできない。
人間の本質は存在しない。あるとするなら、それは自由であるというのに感動した。サルトルは比喩を用いて論述する。ハサミは人が物を切るために生産された。しかし人間は何のためにも生産されていない。神は存在しないのだから。
ここで反論が予想される。人間はその両親の遺伝子によって生まれたのではないかと。それは素質にすぎない。人には思考力とか意思とか理知性が備わっているので自由に生きられる。
大部の書『存在と無』は若い頃通読したが判らなかった。存在論だが対自とか即自とか対他存在とかあれこれ論じる意義を見出せず。
しかし彼の畢生の大著『弁証法的理性批判』があり、ここでは実存主義とマルクス主義が融合されているそうだ。彼は左翼で当時、イデオローグとして新左翼に支持されていた。
最近では、一人の作家(フローベール)評伝評論で世界最長の作品『家の馬鹿息子』が大書店の専門書コーナーの書架を一角陣取っているのを見ると圧倒される、そのヴォリュームに彼の筆力に。彼はすべての事は言葉によって表現できると、どこかで書いていた記憶がわたくしにはある。真理かどうか判らないが同意したい。