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ヘーゲル哲学雑感その2

2023年02月13日 21時21分11秒 | 哲学
 自分の内面と外面の分離に悩んでいた時、職場の先輩S氏は本質は現象すると教えてくれた。どんな職場だ。そう左翼系の組織団体の職場だった。後から知ったが、これは内面の外化である。
 客観と主観の分裂に長い間、悩んでいた。職場の情況について上司に訴えるとそれはきみの主観にすぎないと一蹴された。客観を獲得するにはどうすればいいのか。
 その解答がやっと得られた。久々に有斐閣新書「ヘーゲル小論理学入門」を再通読して。
 主観を客観に一致させる過程が認識で、客観を主観に一致させる過程が実践とされる。という事は主観と客観の統一とは実践認識である。実践して得られた認識が真とされる。
 何せヘーゲルは対立するあらゆる観念を統一して概念化する。
 本質は不変だが、本質と現象が統一されて現実となる。必然性は可能性と現実性の統一です。理念は主観的概念と客観世界の統一です。家族と市民社会の統一が国家です。
 魂と肉体の統一が生命です。生命と認識の統一が絶対理念となる。意志は実践的理念です。
 毛沢東はその哲学として「矛盾論」「実践論」を著している。ヘーゲルマルクスレーニン主義の中国的適用発展として読むことができる。
 実践とは真理認識を獲得する道とされている。具象的に例えていえば、リンゴの味はいくら議論してもその真理は得られない。その目の前のリンゴを一口かじってはじめてその味が判る。それが実践的真理だと。
 ヘーゲルにたちかえらねばならない。
 運動と活動の違いについて若い頃わからなかった。運動の高次形態が活動だった。事柄を現実化する運動を活動という。
 思い出した。あの先輩S氏は、筆者が労働でしんどくてもう限界ですと嘆いた時、限界を制限として突破するとうそぶいた。これって弁証法だと解るが言葉遊びの気がする。この弁証法の法則を労働者に適用すると過労死する場合もあるのではないか。
 正反合の弁証法の内容として、きわまった量から質の転換がいわれているが、これはまさに核エネルギーの真理をとらえている。物体の質量という量が莫大なエネルギーという質に転換されるのだ。