ハニカム薔薇ノ神殿

西南戦争の現地記者の歴史漫画を描いてます。歴史、美術史、ゲーム、特撮、同人誌の話他

昭和的「普通」の終焉

2018年10月14日 | 雑記
次々と災害が起こる時、つまりカタストロフィ。
特に日本では、時代の節目に大きな災害や饑饉が起きてます。
起きたから考えを変えたのかもしれないし、変えざるを得なかったかもしれないけど。

少し書きましたが
被災する以前、うちらの住んでいた地域は
「普通の」住宅地でした。

そう、少なくとも25年前までは、昭和的「普通」に満ちていました。
お父さんはサラリーマンで、街に通勤。
その「ベッドタウン」として郊外に小さな家がある。
お母さんは専業主婦、ご近所付き合いには「隣組」がある。
学校を出れば「普通に」就職し、普通に結婚し、普通に出産し
普通に家を買ったり建てたり。
そしてやがて、家族に看取られて普通にお葬式。


そこにあった昭和ならではの幸せに
果たして「カタストロフィ」なんてあったでしょうか?
それはSFの話であり、現実的にはありえなかったのではないでしょうか?
NASAがスーパー台風とハリケーンの規模にビビる、21世紀はそういう時代ですよ。

自分は最近になってHSPで間違いないことに気づきましたが
そんなに「普通」ではなかったからこそ、親に何度も言われたように
「普通にしなければ」「ちゃんとしなければ」という意識が常に働き、
普通で彩られる普通世界になんとかインしなくては…とどこかで焦りつつ
まるでカメレオンのように周囲の色を確認し、合わせもしながら、生きてきたようにも思います。



昭和どころか、そろそろ平成が終わります。
平成を30年経てみたら
昭和の時に唱えられていた「ごく普通」は
今の若い世代には、残酷なほど高いハードルであるのではと思う時があります。


いや、それはもしかして
ハードルが高くなったというより、生きる選択肢の幅がどんどん広がって自由になっていったことに
単に昭和の「普通主義」がついていくことを拒んでしまうからもあるのかもしれない。

幕末を経て、江戸から明治になった時
江戸の「普通」は明治10年にはすっかり普通ではなくなっていました。
司馬遼太郎先生はこのことに、明治維新からの日本の進歩の速度は世界でも例を見ないと言っておられますが
「普通」は多くの人が何を選び取るかで、常に変化するものであり
最初から決められている「ルール」ではありません。


昭和的な普通基準にこだわりすぎる時代は終わったと思います。

そして見渡せば、かつて言われた「一億総中流」もすっかり過去になり
全体的に1ランク下がることで、かつての中流はすでにハイクラスの基準とすら言えるようになったのかもしれません。

なら逆に考えるんだ!

つまり、昭和的「普通」が終わるならモデルケースに縛られる必要は全く無いのです。
いいじゃないか、自由で。


一部では、このままだとオタクとヤンキーだらけになると囁かれていますが
ならばオタクまたはヤンキーでいることが普通の社会になるだけ。

なら焦らずともすでに、ログイン済ですね、私…。



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