7月3日のブログで新宮秀夫先生の幸福論を紹介したが、そこで引用した新宮先生の最後の「結論」の言葉は次の通り。「人間の幸福は、時間が過ぎていく中で、1度しか起こらない物事を経験してゆく中で感じていくものである。幸福は感動のなかにあり、満足の中にないのはこのためである」なるほどと思わせる「一言」ではないか。
さて、新宮先生は、別に「言葉の値段」というエッセイを書いておられるが、古今東西の「巨人」は、自分の思想を、後世に一言で表せるように、残していると言う。例えば、「ソクラテスは“汝自身を知れ・・”という言葉を吹聴した。アダム・スミスは“みえざる手”、カントは“コペルニクス的転回”・・・、などと言えるだろうか。これらは人の考えの中の事柄、つまり形而上の言葉だが、形而下のことすなわち自然科学の歴史上の人物もたとえば、クラウジウスはエントロピー、ケルビンは零度K,ニュートンならリンゴとか万有引力、アインシュタインはE=mc2 だろうか。」(新宮秀夫著『言葉の値段』より)私が、これらに付け加えるとすれば、例えば法然や親鸞の「南無阿弥陀仏」、福沢諭吉の「脱亜入欧」、マルクスの剰余価値説、ダウィーンの進化論などであろうか。我々の分野では、例えばル・コルビュジェの近代建築五原則、西山卯三の食寝分離論などになるであろうか。
ところで、自分は、そして貴方は、どういう一言を感動の言葉として後世に残せるのか。ここに、人は死して名を残すのではなく、本当は、一生を要約した渾身の言葉を残す(べし)、と言うべきであろう。
さて、新宮先生は、別に「言葉の値段」というエッセイを書いておられるが、古今東西の「巨人」は、自分の思想を、後世に一言で表せるように、残していると言う。例えば、「ソクラテスは“汝自身を知れ・・”という言葉を吹聴した。アダム・スミスは“みえざる手”、カントは“コペルニクス的転回”・・・、などと言えるだろうか。これらは人の考えの中の事柄、つまり形而上の言葉だが、形而下のことすなわち自然科学の歴史上の人物もたとえば、クラウジウスはエントロピー、ケルビンは零度K,ニュートンならリンゴとか万有引力、アインシュタインはE=mc2 だろうか。」(新宮秀夫著『言葉の値段』より)私が、これらに付け加えるとすれば、例えば法然や親鸞の「南無阿弥陀仏」、福沢諭吉の「脱亜入欧」、マルクスの剰余価値説、ダウィーンの進化論などであろうか。我々の分野では、例えばル・コルビュジェの近代建築五原則、西山卯三の食寝分離論などになるであろうか。
ところで、自分は、そして貴方は、どういう一言を感動の言葉として後世に残せるのか。ここに、人は死して名を残すのではなく、本当は、一生を要約した渾身の言葉を残す(べし)、と言うべきであろう。
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