さて、音楽のことである。
結論としては、小生のギターは活躍した。
4月中旬、軽音楽サークルの部室を訪ね、入部の打診をした。
中旬になってしまったのは、卓球部のスケジュールを見極め、音楽の練習日の目処を立てるのが、スムーズと判断したからだった。
軽音楽の部長と会った。
「あっ、ギター出来るんだ」「じゃぁ、フォークでギターが欲しいグループがあるから、頼むわ」と今日、練習しているというグループを紹介された。
小生が田舎から持ってきたのは、確かにフォークギターだが、将来はロックがやりたかった。
「出来ればビートルズかツェッペリンをやりたいのですが・・・」
と言ったが、どちらもバンドは定員だと言う。
もう少し様子を見てから、個別交渉するしかないか、と思いながら、ギターがいないというフォークグループと面談した。
女性ボーカルが2人、なぜかドラムの男が一人、そしてピアノが弾けると称する男が一人だった。
そのまま、練習に混ぜてもらった。練習曲は「赤い鳥」と「5つの赤い風船」だった。
ハーモニーもなかった。モノラルの2人が歌うのに下手なピアノが伴奏を付けていて、ドラムがうるさかった。
ため息が出たが、成り行き上、しょうがない。
楽譜があって、コードは符ってあったので、チューニングしてギターのコードストロークだけで合わせて、下のパートで適当にコーラスに入る。
このあたりの曲は高校の学園祭などで、女子のコーラスグループの伴奏的にギターでお手伝いした際の曲目だったので、一通りやったことがある。
ドラムがやけに、うるさく「翼をください」や「遠い世界に」のハモリも、ついつい声を張り上げてしまった。
練習が終わると一緒に食事でもするのかな。と思うと、それぞれが帰るらしい。また来週と分かれた。
翌週、小生は寮の隣の部屋の竹山君を、練習に連れていった。
竹山君とは入学早々に友達になった、ギター仲間だった。
小生が、「22歳の別れ」を弾いていたとき、隣の部屋から、「ポスターカラー」の歌声が聞こえてきた。古井戸だ。
部屋を覗いて、YAMAHAのフォークギターを抱えていた男が、竹山君だった。
自己紹介して、早速、空き部屋に2人で入って、かぐや姫の「アビイロードの街」をセッションした。
♪君は雨の中
♪♪ラランララー
♪ちょうど今日みたいな日だった。
いきなり、コーラスも絶妙。歌もギターも、うまかった。
出逢って2日後、新宿厚生年金小ホールであった「古井戸」のコンサートを2人で、見に行った。
当然、仲良くなった。
その竹山君を、このフォークグループに紹介した。
竹山君は案外、このグループが気に入ったらしい。
毎週欠かさず、練習に参加して、このグループの実質リーダーとなっていった。
小生が5月に部内のお披露目会を境にこのグループからフェードアウトしていったのは対照的だった。
結局、ビートルズやツェッペリンのグループに、入ることはできなかった。
案外、卓球部が忙しいことが判明し、その制約の中で、メンバーに入って練習を続けることは、迷惑をかけそうだったのだ。
だが、未練があったのだろうか。同じクラスの笹塚君がツエッペリングループでリードギターをやっていたので、時々遊びにいって勝手にセッションしていたが、ポジションはなかった。
しかし、ボーカルの高音の限界で諦めていたイミングラントソングを笹塚君はどうしても披露したかったようだ。小金井公会堂の定期演奏会の際、この一曲だけボーカル出演した。
記念出演となった一曲は、受けた。一瞬、ちやほやされた。
大学1年のころ、小生は♪ラまでの高音が出た。
余談だが、2年ほど経ったとき、笹塚君から再度ピンチヒッターを頼また。定期演奏会が厚生年金会館であるという。
もちろん、勇んで練習に行った。
ところが何故か、♪ミまでしか出ない。
イミングラントソングは、よーいドンの最初が一番、高音だ。
裏声も、かすれていた。
自分でも愕然としたが、バンドのメンバーは白けた。笹塚君に恥をかかせた。
当然、小生のピンチヒッターはボツになり、バンドのボーカルに合わせてコードを下げて対処した。
思いのほか、卓球部が楽しかった。居心地がよかった。
強い相手に負けても、その時は悔しいが、部全体にさほどの上昇志向がなかったのが丁度良かったのかもしれない。
繰り返すが、中学生の時に佐世保で買ったモーリスのギターは、大活躍した。
どうしても、モーリスが良かった。後々、考えるとバカな話だが、なにせオールナイトニッポンのコマーシャルで流れていた。
佐世保の楽器屋の人は、他のメーカーを勧めたが、その時はモーリスでないと友達に自慢できないと思っていた。
大学に入り、フェンダーのエレキとヤマハの12弦(フォーク)を友人から安く譲ってもらって、寮のイベントぐらいでは活躍したが、モーリスは気楽に、むき出しで旅のお供にも連れて行った。
卓球部は宴会好きだった。
旅が好きだった。
ついでに卓球も好きだった。
長谷さんや富岡さんは、親しい店の2階を借り切るなどして、たびたび宴会が行われた。
その都度、メンバーによってテーマが設定された。
60年代限定曲大会の日、一発ヒット限定大会の日、ビートルズ限定の日、グループサウンズ大会、アイドル大会など、様々だった。
曲の1番は皆良く覚えていた。
2番になると正確に歌える人は少なくなるが、サビの部分は大合唱だ。
カラオケなど、ない時代だ。せいぜい8トラックに演歌が入っていて、歌詞カードで1曲100円で歌わせるスナックが現れた時期だ。
小生は極力、歌本を持参した。中学生から買っていた明星の付録がこんなところで役に立つとは・・・
旅に出る時は富岡さんからギターを持ってくるように要請があった。
旅先の公園や浜辺は簡易のコンサート会場だった。
お客さんが少ない田舎のバスに乗ったときには、後部差席を占領しての大コーラス。
当初、小生は恥ずかしかったが、TPOに合っていたのか一度もクレームはなかった。
それどころか、近くの人が参加してドンちゃん騒ぎになることもしばしばだった。
しかたがないので、小生は明星の歌本の、どれをリクエストされても、一通りコードくらいは弾けるように練習した。
幸い、歌本に載っている昭和35年以降の曲の95%は知っていた。
戦後の歌でも有名どころは口ずさんだ。
ラッキーなことも時々あった。
夏の旅行で浜辺で車座になって、皆で歌っていると、夕涼みに現れたお嬢さんのグループが、よく飛び入り参加してくれた。
ギターを操る小生は当然モテた。
卓球からは足を洗い、音楽をやろうと決めて上京した小生だったが、このような顛末の学生生活となってしまった。
果たして、小村さんを恨むべきか、感謝すべきか・・・
おしまい