Miraのblog

小説はじめました

ギターかついで 4 完結編

2024-04-28 17:50:38 | ギター担いで

 さて、音楽のことである。
結論としては、小生のギターは活躍した。
 
 4月中旬、軽音楽サークルの部室を訪ね、入部の打診をした。
中旬になってしまったのは、卓球部のスケジュールを見極め、音楽の練習日の目処を立てるのが、スムーズと判断したからだった。
 
 軽音楽の部長と会った。
「あっ、ギター出来るんだ」「じゃぁ、フォークでギターが欲しいグループがあるから、頼むわ」と今日、練習しているというグループを紹介された。
 
 小生が田舎から持ってきたのは、確かにフォークギターだが、将来はロックがやりたかった。
「出来ればビートルズかツェッペリンをやりたいのですが・・・」
と言ったが、どちらもバンドは定員だと言う。
 
 もう少し様子を見てから、個別交渉するしかないか、と思いながら、ギターがいないというフォークグループと面談した。
女性ボーカルが2人、なぜかドラムの男が一人、そしてピアノが弾けると称する男が一人だった。
 そのまま、練習に混ぜてもらった。練習曲は「赤い鳥」と「5つの赤い風船」だった。
 ハーモニーもなかった。モノラルの2人が歌うのに下手なピアノが伴奏を付けていて、ドラムがうるさかった。
 ため息が出たが、成り行き上、しょうがない。
 
 楽譜があって、コードは符ってあったので、チューニングしてギターのコードストロークだけで合わせて、下のパートで適当にコーラスに入る。
 このあたりの曲は高校の学園祭などで、女子のコーラスグループの伴奏的にギターでお手伝いした際の曲目だったので、一通りやったことがある。
ドラムがやけに、うるさく「翼をください」や「遠い世界に」のハモリも、ついつい声を張り上げてしまった。
 練習が終わると一緒に食事でもするのかな。と思うと、それぞれが帰るらしい。また来週と分かれた。
 翌週、小生は寮の隣の部屋の竹山君を、練習に連れていった。
 
 竹山君とは入学早々に友達になった、ギター仲間だった。
小生が、「22歳の別れ」を弾いていたとき、隣の部屋から、「ポスターカラー」の歌声が聞こえてきた。古井戸だ。
 部屋を覗いて、YAMAHAのフォークギターを抱えていた男が、竹山君だった。
 自己紹介して、早速、空き部屋に2人で入って、かぐや姫の「アビイロードの街」をセッションした。
♪君は雨の中
♪♪ラランララー
♪ちょうど今日みたいな日だった。
 
いきなり、コーラスも絶妙。歌もギターも、うまかった。
 出逢って2日後、新宿厚生年金小ホールであった「古井戸」のコンサートを2人で、見に行った。
当然、仲良くなった。
 
その竹山君を、このフォークグループに紹介した。
 
竹山君は案外、このグループが気に入ったらしい。
毎週欠かさず、練習に参加して、このグループの実質リーダーとなっていった。
小生が5月に部内のお披露目会を境にこのグループからフェードアウトしていったのは対照的だった。
 
 結局、ビートルズやツェッペリンのグループに、入ることはできなかった。
 案外、卓球部が忙しいことが判明し、その制約の中で、メンバーに入って練習を続けることは、迷惑をかけそうだったのだ。
 だが、未練があったのだろうか。同じクラスの笹塚君がツエッペリングループでリードギターをやっていたので、時々遊びにいって勝手にセッションしていたが、ポジションはなかった。
しかし、ボーカルの高音の限界で諦めていたイミングラントソングを笹塚君はどうしても披露したかったようだ。小金井公会堂の定期演奏会の際、この一曲だけボーカル出演した。
 記念出演となった一曲は、受けた。一瞬、ちやほやされた。
大学1年のころ、小生は♪ラまでの高音が出た。
 
 余談だが、2年ほど経ったとき、笹塚君から再度ピンチヒッターを頼また。定期演奏会が厚生年金会館であるという。
 もちろん、勇んで練習に行った。
 
 ところが何故か、♪ミまでしか出ない。
イミングラントソングは、よーいドンの最初が一番、高音だ。
裏声も、かすれていた。
自分でも愕然としたが、バンドのメンバーは白けた。笹塚君に恥をかかせた。
 
当然、小生のピンチヒッターはボツになり、バンドのボーカルに合わせてコードを下げて対処した。
 
 思いのほか、卓球部が楽しかった。居心地がよかった。
強い相手に負けても、その時は悔しいが、部全体にさほどの上昇志向がなかったのが丁度良かったのかもしれない。
 
 繰り返すが、中学生の時に佐世保で買ったモーリスのギターは、大活躍した。
 どうしても、モーリスが良かった。後々、考えるとバカな話だが、なにせオールナイトニッポンのコマーシャルで流れていた。
佐世保の楽器屋の人は、他のメーカーを勧めたが、その時はモーリスでないと友達に自慢できないと思っていた。
 
大学に入り、フェンダーのエレキとヤマハの12弦(フォーク)を友人から安く譲ってもらって、寮のイベントぐらいでは活躍したが、モーリスは気楽に、むき出しで旅のお供にも連れて行った。
 
卓球部は宴会好きだった。
旅が好きだった。
ついでに卓球も好きだった。
 
 長谷さんや富岡さんは、親しい店の2階を借り切るなどして、たびたび宴会が行われた。
その都度、メンバーによってテーマが設定された。
60年代限定曲大会の日、一発ヒット限定大会の日、ビートルズ限定の日、グループサウンズ大会、アイドル大会など、様々だった。
曲の1番は皆良く覚えていた。
2番になると正確に歌える人は少なくなるが、サビの部分は大合唱だ。
 
 カラオケなど、ない時代だ。せいぜい8トラックに演歌が入っていて、歌詞カードで1曲100円で歌わせるスナックが現れた時期だ。
 
 小生は極力、歌本を持参した。中学生から買っていた明星の付録がこんなところで役に立つとは・・・
 
 旅に出る時は富岡さんからギターを持ってくるように要請があった。
旅先の公園や浜辺は簡易のコンサート会場だった。
 お客さんが少ない田舎のバスに乗ったときには、後部差席を占領しての大コーラス。
 当初、小生は恥ずかしかったが、TPOに合っていたのか一度もクレームはなかった。
それどころか、近くの人が参加してドンちゃん騒ぎになることもしばしばだった。
 
しかたがないので、小生は明星の歌本の、どれをリクエストされても、一通りコードくらいは弾けるように練習した。
 幸い、歌本に載っている昭和35年以降の曲の95%は知っていた。
戦後の歌でも有名どころは口ずさんだ。
 
 ラッキーなことも時々あった。
夏の旅行で浜辺で車座になって、皆で歌っていると、夕涼みに現れたお嬢さんのグループが、よく飛び入り参加してくれた。
 
 ギターを操る小生は当然モテた。
 
 卓球からは足を洗い、音楽をやろうと決めて上京した小生だったが、このような顛末の学生生活となってしまった。
 
 果たして、小村さんを恨むべきか、感謝すべきか・・・
 
 おしまい

 


ギターかついで 3 卓球部編

2024-04-28 17:46:09 | ギター担いで

 結果的には、その翌週から卓球部の練習に参加した。
小生の学校は関東学生リーグの5部(1部から6部まであった)の上位で、もう少し戦力が整うと4部でやっていけるくらいの実力だった。
 
 小生は、理科系単科大学で関東学生リーグ5部の卓球部をなめていた。
 ところが、富岡さんと沖田さんは高校の同級生で東京都のダブルスで優勝したことのある選手だった。他にも県大会で上位の人が何人かいた。
 
 試合してみると、勝てない人がいる。
結構、上手い人がいるのに、何で5部なの?と不思議に思った。
 
理由は入部して1週間もすると理解できた。
 
 練習に来ないのだ。
 
 前キャプテンの小村さんと次に再会したのは、一ヵ月後の春のリーグ戦の会場だった。
ペコリと頭を下げる小生に、小村さんは「おー、お前か。期待してるぞ」と言っただけだった。
 
 春は公式戦が多い。ところが、主力選手が試合に来なかったりして、ベストメンバーが組めないことも多かった。
 チームの主力選手が化学実験があるとか必修科目があるとか、時にはバイトがサボれないとかいう理由で試合に来ないのだ。
 そのような理由もあって、キャプテンは、必ず試合に来れる人が任命されていた。
 少なくとも、関東学生リーグに名前が連ねてあることが最低限かつ重要なことなのだ。 
 
 思い返せば、あの人が来てれば、5部優勝、間違いないというリーグ戦が何度もあった。
 これも、学業優先だから、しょうがないことだったかもしれない。
 
 小生は入学式前に入部した経緯もあって、4月の公式戦から試合に出してもらった。これにはカラクリがある。
 
 入学式前に主務の清原さんが、「お前、明日ひまだろう。代々木体育館行って、学連本部に書類を届けてきてくれ」と言われた。
 「入学式前の私で大丈夫ですか?」と嫌がったが、先輩の命令だし、東京オリンピックの会場である体育館も見てみたかった。
 「富岡さんが、お前も登録しとけって言うから、名前載せといたから」「それとリーグ戦の開会式も行ってきてな」と清原さんは言った。
 
 詳細は関東学生連盟からの案内書に書いてあった。
リーグ戦の開会式は10時からとあった。
書類を届ける場所は岸記念体育会館だった。
 
 翌日、中央線で新宿に出て、山の手線に乗り換えた。
原宿で降りて、駅員に体育館の場所を聞いて、明治神宮の入り口を右に見ながら渋谷方向の横断歩道橋を渡る。
 
 まず、岸記念体育会館に書類提出。関東卓球学生リーグの受付で、「はい、ご苦労さま」と書類も見ずに受け取ってもらった。
入学前の小生の名前が一番下に書いてあって、ドキドキして損した。と思いながら、代々木第2体育館に向う。
 
 入り口で学校の名前を言うと、「何部(ナンブ)?」と受付の人。
「5部ですが・・・」と小生が答えると、
「ああっ・・・観客席で見て参加してください」
 
 この日は開会式に引き続き、専修大学対明治大学の開幕戦があると書いてあったので、この1部リーグの試合が、どんなものか見ておきたい。
 
 開会式が始まった。1部の6チームと2部の12チームが入場した。
日本大学の高野を探したが・・・「いれば、でかいから分かるけどなぁ」日大の中には、それらしき選手はいなかった。
 偉い人の挨拶などが済んだあと、コートに卓球台が一台あらわれ、試合が始まった。
 そこで、初めて気がつく、観客席の半分以上の人が専修大学か明治大学の応援をしに来ていたのだった。
 観客席前方は両校の応援部員で埋まっていたので、小生の席は卓球の観戦には遠すぎた。
「どうしよう。遠くて見えないな」と思いながら、とりあえずトイレに行こうと階段を上った。
 代々木第2体育館はすり鉢状になっていて、トイレとか売店が観客席の後ろ側の通路にあった。
 
 その通路に、ジャージ姿の学生が横一列に整列していた。
「何だろう」と30人ほどの列の前を横切ってトイレへ向う。
ジャージには慶応と印刷されていた。
 
 先シーズンの秋まで1部であった慶応大学は入れ替え戦で大正大学に負けて、この春、2部に落ちていた。ということを、関東学連の冊子を中央線の中で読んで、つい先ほど知ったばかりだった。
「慶応って、2部なのか」と思いつつトイレへ。
 
 トイレから戻ろうとした小生は、同じルートで観客席に戻れなかった。
 小生が歩いてきたルートには、慶応の先輩と思われる5名ほどが、直立不動の学生と向かい合わせになって通路をふさいでいた。
困った小生は、少し離れた場所から観察した。
 
 OBと思われる貫禄のある人がしゃべり始めた。
一語一句を覚えている訳ではないが、主旨はこうだ。
 
「長い慶応の歴史に君たちは泥を塗った。先輩たちに申し訳ない。これも君達の気合と根性が足りないからだ。死ぬ気で練習して、絶対に秋には1部に昇格し早稲田に勝たなければならない」
 
 話は延々と続いた。
 選手の前に立ったOBが順番に訓示した。2人目が同じ様なことを言って、3人目も似たような話と判明したころ、観客席への入り口を反対方向に見つけて、自分の席に戻った。
「良かった・・・ 慶応に行かなくて・・・」
間違えても、慶応の卓球部にいる訳もないが、つぶやいた。
 
私の知っている限りでは、この後、慶応が1部に昇格することはなかった。
 
 2週間後、当校も春のリーグ戦が始まった。
初戦の相手は成蹊大学だった。対戦校5校の中で一番強いという前評判で、いきなり事実上の優勝決定戦だった。
 
この日のベストメンバーと思われる3年性、4年生のチーム編成で試合に出場した。
 ところが、接戦だったが、負けてしまった。
7戦までもつれ込んだが、選手の粒が揃っていた成蹊は、7番目の選手もレベルが落ちなかった。
 
 「昇格が早々になくなった」と判断した先輩たちが、応援に来ていたOBたちと昼間から宴会に行ってしまったので、小生たちにも出番が回ってきた。
 
 成蹊大学以外はあまり強くなかった。
 
 試合形式は6単1複(シングルス6人とダブルス1組)だ。
小生も5番手か6番手という気楽な順番に起用してもらい、全勝した。
相手のレベルが低いので当然だが・・・
 
 2日間のリーグ戦の最終成績は4勝1敗だった。
もちろん、5戦全勝の成蹊大学が入れ替え戦に向うこととなった。
 
 全勝した小生は、単純に調子に乗る性格だった。
「成蹊戦の初戦のエースと自分が対戦すれば優勝したはず」だと・・・
 
 その2週間後、東京都国公立戦が学芸大で開催された。一回戦は外語大に快勝し、2回戦で東大と対戦した。この大会はベストに近いメンバー構成で挑んでいた。
 東大には、勝ったことがないという。長い歴史、一度も勝った事がないらしい。
 ところが、この試合は勝てそうになった。
 
 東大側の有力選手が揃ってないのだ。
 
7試合があり、4試合先取した時点で勝敗が決まる。
 なぜか東大はエースの望月選手が7番目に登録してあるが、準エースクラスのエントリーがなく、通常レギラーでない選手が前半戦に登録している。
 こちらの実力をなめて、3回戦以降が行われる午後からレギラーは来るのかもしれない。
 試合は拮抗した。3対2で東大がリードしていたが、6番手は小生が相手を圧倒していた。3対3に持ち込めそうだ。
 
 ところが、いやに相手の試合のペースが遅い。
なにかにつけて、東大サイドのベンチに帰り、相談をしている。
 
「全然、試合進まないんですけど・・・?」小生は自分のベンチに言った。
久保さんが、ニヤニヤしながら言った。
「望月が到着してないんだよ」「東大、慌ててるな」
 
 小生がこの試合に勝つと3対3となる。
次の試合、当校は長谷さんで、東大は望月選手なのだが、望月選手が学芸大学に到着していないようで、小生の相手が試合を引き伸ばしているようなのだ。
 つまり、小生がこの試合を勝って、その時点で東大の7番目の選手が出場できないと当校が不戦勝となる。
 当校にとっては、又とない快挙だ。
 
 意味を理解した小生は「早くしてください!」
 
 天地がひっくり返っても学業では勝てない東大の選手に卓球台に付くように督促した。
 相手は4年生だったが、1ポイントごとにベンチに帰り、タオルで汗を拭く。
 小生は入学したばかりの1年坊だが、「何やってるんですか?早く台について!」
 文字通り、ここぞとばかりに、上から目線で督促した。
 
 東京大学というタイトルを持つ人が、卑屈に小生に謝る姿を見た、人生で唯一の光景であった。
 
 実に残念なことだが、その後の小生の人生が、この手の人たちに頭を下げ続けることになったのは、皮肉なことである。
 
 試合の終わりが近づいたころ、やっと急に相手がベンチに行かなくなった。
 望月選手が到着したのだった。
 
 7番目のファイナルの試合は、あっさりケリがついた。
東大の望月選手は、1部リーグの選手に引けを取らない実力の持ち主だった。
 長谷さんは見せ場を見せることが出来ず、あっさり敗退した。
 
 翌日、東京大学と東京教育大学(現筑波大学)の決勝戦を観戦した。
 負けはしたものの、東大は教育大に善戦した。
 東大は昨日のメンバーとは、がらりとレギラーが入れ替わっていて、私が対戦した4年生など出場する余地もなかった。
 個人戦では、望月選手が教育大のエースに競り勝ち、優勝した。
 
 所詮、われわれ規模の学校の運動部が、全国から強い学生を入れて本格的に運営している学校に勝てるはずがない。
 ましては、当校は理科系の単科大学であり、絶対的人数も少なく、当然ながら学業優先で、練習はもとより、試合すら来れない人も多かった。
 言ってみれば、練習や試合にフルに参加できる人は学業をおろそかにしていた。
 
 しかしなぜか、小生にとっては、この学校の卓球部は居心地が良かった。
そもそも学業優先で大学に来た訳でもなかった。
 もちろん落第は、したくないが、成績優秀で卒業する必要など微塵も感じていなかった。
 
 偶然が重なったにせよ、折角、都会に出てきたのだから、学校以外にも、なにかあるのでは、との期待が大きかった。
 卓球部の先輩は個性が強いが、頭のいい親切な人ばかりだった。
 
 私の人生の方向は、この4年間の卓球部の中で決まっていった。
 
つづく


ギターかついで 2 熊との戦い編

2024-04-28 17:43:09 | ギター担いで

 卓球については、高校3年のとき、たまたま大きな大会に出る機会があった。
 
 一回戦は弱い選手だったので、完勝したが、2回戦は第一シードの選手と試合した。(要するにシード下だった)
 
 田舎では敵なしの小生は、うぬぼれだけは強かった。
根拠もなく、本気でやれば自分が一番強いと信じていた。遠征して、もし負けても、敗因を強引に見つけ、あの時こうすれば勝っていたはずと自分の実力不足を認めなかった。
 
 第一シードの選手との試合が始まった。第一シードということは、高校生では一番強い選手だ。相手に不足はない。
柳川高校の高野、後に日本大学に進学し1年生からエースで全日本の上位の常連となる選手だった。
およそ卓球をやる体格ではない。ラグビーのフォワードとか柔道の大きな選手が、シェイクハンドのラケットを握って仁王立ちして、卓球台の向こうで、肩をいからせているかのようだった。
 
「まるで熊だな」と思ったが、相手との距離がある場合、小生はビビらない。
これが、柔道の試合なら既にチビッていたかも知れないが、なにせ卓球は台を挟んで対峙する。
 
 小生の経験では、卓球はデカイやつほど見掛け倒しが多かった。
体の大きな人は、型が決まれば、強いドライブやスマッシュをきめるが、卓球はその状況を作りあげるまでが勝負なのだ。
 
県の個人戦では、デカイ選手でフォアハンドドライブが強い各学校のエース級との対戦が多かった。
しかし、彼らのバックに回り込んだ渾身のドライブは、ことごとく小生が繰り出すペンホルダーのショートの餌食となった。    
フォアサイドにナチュラルに曲がっていくショートが決まると、決まって相手のドライブの調子はくるった。
 
 第一シードとはいえ、相手はドライブ主戦だ。
小生が今まで、ほとんど負けたことのない戦型なのである。
 
 じゃんけんに勝ったので、サーブを選択した。
相手は「このままでいい」と自分のコートをラケットで軽く叩いた。
 
 小生のサーブで試合が始まった。バックハンドの下切りサーブ、最大の回転を加えた。
小さくコート中央に弾んだボールを相手はフォアハンドではらった。ボールはネットに掛かった。
「よし!」と叫んで、こぶしを握った小生。
 
 「案外、下手かもしれない」と思った。
 通常、下回転のボールは、突っつきで返すのが常識だ。試合序盤なのだ。
 
 2本目は小生が得意としている膝つきサーブを出した。相手から見ると、回転の方向が分かりにくい特徴がある。これもコートの中央に小さく弾んだ。わざと無回転にした。
 相手は先ほどと同じようにフォアハンドのラケットを振り上げた。回転を意識しすぎたのか、ドライブがかかり過ぎて、ボールはコートをはるかにオーバーしてコートフェンスも越えて隣のコートまで飛んでいった。
「よーし!」
 
3本目は投げ上げのフォアハンドで、サイドカットを相手のバックに食い込ませた。相手は素早く回りこんで、フォアハンドでドライブを繰り出すも、これも小生のサーブは上回転を加えており、コートをオーバーした。
「よっしゃー!」
 3ポイント連取だ。「勝てそうだ」
 
 4本目は同じ投げ上げサーブに下回転を加えて、もっと深い角度に食い込ませた。
相手はこれも回り込んで、ドライブ。小生のフォアサイドに決まった。
小生は手を伸ばしたが、とどかなかった。
相手は軽く、ラケットを振りながら「よし」と言った。
想定内だ。相手は第一シードなのだ。
 
 しかし、5本目に得意の膝つきで、渾身の下回転を加えたサーブを、相手が台上ドライブを見事に決めてから、小生の記憶はあまりない。
「よーっ!」という相手の声だけが、耳に残った。
 
 試合の結果は1セット目が21対6、2セット目が21対3だった。
もちろん、小生が負けた。完敗だった。
 
 こんな負け方は、初めてだった。
 
しかし不思議と屈辱とは、感じなかった。
あまりにも実力が違いすぎていた。
サバサバした気持ちだった。
 
 高野選手は小生のサーブの回転をほとんど読んでドライブかスマッシュを決めだした。
 高野選手のサーブの時は、ほとんどが単純な下回転だったが、小生がツッツキで返すと、豪快なドライブが小生のコートに突き刺さった。ラケットになんとか当てて返しても、次のスマッシュはさらに強烈だった。
 
 試合が終了しコートを挟んで、礼を相手と審判にしながら「熊が卓球すんなよ!」とつぶやいていた。
 大会会場から出て、蝉の声がうるさい7月のかげろうに揺れる青い空を見上げて「これで卓球がやめられる・・・」と決心した。
 
 月海で、もずく酢をさかなに、月山の枡酒を飲みながら、小生の高校時代の話を聞いた富岡さんは「お前、高野とやったのか!」と大げさに、驚いてくれた。
 
高野選手はこの年、前評判どおりインターハイと国体で優勝し、高校生ながら出場した全日本選手権でも、ベスト16まで進出した超高校級の選手となっていたので有名だった。
普段だったら、「もう少しで勝ってたんですけどね」などと見栄を張る小生だが、このときは謙虚に言った。
「全然、勝てる気しませんでした」「高野は日大に行ったようです」
 
「明治じゃなかったんだ」と富岡さん。
日本大学は関東学連の1部だが、明治、早稲田、専修のほうが強かった。
 
 小生は高野選手との対戦で、卓球は燃え尽きたので、大学では音楽に生きると言った。
 
「じゃあ、今度、ヘッドパワーに行こう、ギターも歌も結構うまい奴が出てるぜ。フォークだけだけど」「お前も音楽は音楽で、やればいいんだよ」と、富岡さんも、音楽は大好きだと言った。
 
「でも、卓球もやればいいんだよ」と、いかにも体育会には、あり得ないことも言った。
(ヘッドパワーというのは、新宿にある深夜営業のライブハウスのことだが、この話はいつかの日か・・・)
 
「えっー!そんなにいい加減でいいんですか?」
 
つづく


ギターかついで  1 上京編

2024-04-28 17:34:20 | ギター担いで

昭和50年の4月上旬、府中キャンパスの体育館の前の階段で満開の桜を見ていた。

 木漏れ日が暖かく、時おり吹く風に花びらが舞った。

 確かに2時と言われた。と、昨日の夜を思い出していた。

 「新入生の○○君、面会人です」と館内放送があった。

入寮したものの、部屋が決まっておらず、寮委員の稲森さんの部屋で2泊した。
 やっと部屋を割り当てられて、3棟の304号室で前寮長の北村さん(4年生)のとなりのベッドに西友で買ってきたカーテンを取り付けていた。
 「今の君じゃないの?」と北村さんが言って、自分の名前がアナウンスされていることに気がついた。
 私が戸惑っていると、「玄関にだれか来てるんだよ」と教えてくれた。

 小生がこの学校に行くと決断したのは、つい5日ほど前のことで、親戚や友達に住む場所を知らせていない。 
 親が東京の親戚に知らせたのかな?などと考えながら、玄関に急ぐ。

 夕方の6時くらいだったろうか。 
まだ玄関の電気はついておらず、暗く閑散としていた。

 だれもいない?・・・いや、ひとりいた。玄関の赤電話の前の椅子に黒い服を着た人が後ろ向きに座っていた。
 知らない人だった。戸惑って立ちすくむ小生にその男が振り向きながら立ち上がった。
 「お前が○○か・・・?」「4年の小村だ」「大木から聞いたよ。明日、農学部体育館で2時から練習な!」

 大男だった。一方的にしゃべり、玄関から出て行った。
 威圧感があり、小生は「はぁ・・・」としか答えられなかった。

 大木という名前は聞き覚えがあった。
昨日、稲森さんの部屋であった人だ。稲森さんと同級生らしい大木さんは、赤い半そでシャツと短パンの卓球のユニフォーム姿でシェイクハンドのラケットを握って部屋に現れたのだった。

 モーリスのギターを抱えて、田舎から上京した新入生に、寮委員の稲森さんは親切だった。
「田舎はどこで、なんという名前の高校なのか」とか、「高校時代は何をしていたのか」とか色々と聞いてくれた。
「卓球やってたんですが、大学ではギターをやるつもりです」「ビートルズやりたいです」と小生はフォークギターのDコードを指で押さえ、Here Comes The Sun のイントロを引いた。

(ちなみに写真は、ジョージハリソン)

「音楽なら軽音楽かな。卓球部なら、同級生がいるよ」と稲森さん。

「卓球は、もういいです。散々やりましたから」と小生が答えたにも関わらず、稲森さんが、わざわざ呼んで、来てくれたのが、大木さんだった。

「いま、そこの工学部の体育館で合宿やってんだ。来る?」部屋に来るなり、大木さんは言った。
 小生はびっくりしたが、「いや、卓球部には入るつもりはないんです。それにウエアーも持ってませんし・・・」
 「そう・・・」と大木さんは帰っていった。

 その次の日の出来事が、小村さんという大男の出現だった。

 なんか恐そうな人だった。

 普段は虚勢を張っているが、実際のところ小心者の小生は、次の日の1時過ぎに電車とバスを乗り継いで、農学部の体育館にたどり着いたのだった。

 体育館は閉まっていた。
「少し、早すぎた・・・」「2時まで待とう・・・」
 桜の花びらが、ヒラヒラと落ちている。

 2時を過ぎた・・・が、誰も来ない。
「ひょっとして、場所がちがうのかな?」と思い、体育館と並びの生協に行って、「農学部の体育館ってここだけですか?」と確認するも、間違いなくここにしかないという。

「3時の間違いだったのかもしれない・・・」
体育館の前の階段に座って桜を眺めるしかなかった。

 2時40分を回った頃だった。
誰かが小走りで走ってきた。サンダル履きだ。

「おうー、悪い悪い、今日練習ないんだ!」

あとで知ったことだったが、このサンダル履きの人は3年生の岡部さんで、卓球部の現キャプテン、そして、昨日現れた小村さんは4年生で、前キャプテンだった。

 岡部さんは、生協方向に小生を導き、自動販売機の前で、「オレンジで、いいか?」と100円のジュースを差し出して言った。
「お前、マージャンやる?今から葵でマージャンなんだ」

10分後、小生は府中刑務所の横の小さな商店街にある雀荘「葵」で岡部さんと岡部さんの同級生で、卓を囲っていた。
 「富岡さんが遅れてくるから、助かったよ」と、小生が面子に加わって、ちょうど4名になったことを岡部さんは言った。
 富岡さんが、到着しないまま半チャン5回くらいやった。

 いきなり知らない大学生と卓を囲んだことと、東京では食いタンであがれるという小生が経験したことのない「アリアリ」というルールだったので、緊張した。

 富岡さんが到着したときには、すっかり暗くなっていた。

 小生は少し負けていたと思うが、「いいよ、いいよ」と雀荘代も払ってもらい、皆で国分寺に、ご飯を食べに行くことになった。

北口の「月海」に入った。
富岡さんの行き着けの店だった。
山形の月山という原酒がおいしいらしい。

 小生は、酔っ払って、今回の経緯を説明した。

 富岡さんは笑いながら「それは、ひどい目にあったなぁ」「小村さんは、いっつもそうなんだよ」と小生と小村さんの出会いのことを言った。

 今日、農学部で練習があると思っていたのは、小村さんだけで、小村さんは前キャプテンにも関わらず、この手の勘違いが多い人だと言う。

少し打ち解けた小生は「なんか、恐そうな人だったので・・・」とつい本音を言って、ついでに「卓球は高校で限界を感じましたので、大学ではギターをやろうかと思ってます」と打ち明けた。

つづく