冬休み、小寺君と西口君が来るという。
まさか、イカが食べたいという理由だけで、西の果てまで・・・
国分寺の居酒屋「笹一」で、つまみで出てきた「イカ刺し」や「イカ納豆」を私が食べないのに気付いた小寺君が「イカ、嫌いなの」、「田舎で食い飽きてるから・・・」と答えた小生に、「飽きるほどイカ食ってみたい」と食いついた。
ほとんどの友達が夏休みに小生の実家に来て遊んだ。
都会にはない綺麗な海がそこにはあった。みんな西海国立公園の海を満喫した。
「夏場も食えるけど、冬の方がうまいよ、寒ブリもあるしね・・・」とうっかり本当のことを言ったので、こよなくイカが好きな2人が、冬休みに来ることになったのである。
西口君が佐世保港からフェリーに乗る前に電話をくれた。
小生の実家はフェリーの港にほど近い高台にある。
北風吹きすさぶ冬の有川湾に「ボーー」っと警笛が鳴り、フェリーが入って来るのを実家の窓越しに確認してから、ゆっくり家を出ればフェリーの到着に十分間に合う。
吉祥寺の近鉄デパートで買った赤いジャンバーを着て、ポケットに手を突っ込んでも寒く、ふるえながら港に向かった。
寒いはずだ。みぞれまじりの雪がちらついていた。
東シナ海に浮かぶ五島列島は、対馬海峡をはさんで玄界灘に接しており、北九州と同様に冬は寒い。
フェリーが着岸するまでの、5分くらいの間、マフラーしてこなかったことを後悔していた。
定刻の午後4時20分、九州商船のモミジ丸は到着した。
「寒いなー。早く出てきてくれ」と思いながら、タラップが渡された船の出口を覗く。
フェリーの2階デッキから何か声が聞えるので、ふと見上げた。
デッキには、まさに本日のゲストである、小寺君と西口君が手を振っていた。
目を疑った。
「半そで」だった。
夏の装いだった。
特に、小寺君はTシャツと短パンだった。
なにか怒鳴っている・・・北風吹きすさぶ桟橋に聞えてきた。
「なんだよ!寒いじゃないか(怒)」
雪が、冷たい北風に舞っていた。
とりあえず赤いジャンパーを小寺君に着せて、実家への上り坂を3人は走った。
西口君は東京では上着を着ていたが、小寺君は東京から夏の格好で長崎、佐世保行きの「寝台特急さくら」に乗ったという。
「五島列島って言えば、沖縄だろう」と小寺君は断定。
「勘違いだったとしても、佐世保も寒かったろうから、そこで気付くだろう」と小生。
「佐世保で、待ち時間が2時間あっただろう」
佐世保では商店街にある大阪屋ラーメンを食べるように指定していたので、ジャンバーくらい買えただろう。と、小生は言った。
たしかに西口君の方は、どうもおかしいと思ったようだが、「フェリーが着けば、そこは南の国」という小寺君の主張(思い込み)を信じたらしい。
実家のコタツで暖まったころ、小生は中学生の時の地図帳を出してきて、日本地図で説明した。
五島列島は沖縄の700Kmはるか北に位置していること。
冬場は日本海側の寒流が届くので、九州北部は下手すると東京より寒いこと。
九州の南北の距離は、およそ400Kmあるので、北九州と鹿児島ではかなり気候が違うこと。
等々
西口君は納得したが、小寺君は「そんなこと言っても、五島列島は沖縄のイメージだろう」と最後までこぼした。
なにしろ、彼らは海パンと水中めがねを持参していた。
イカは美味かった。
おいしいイカを食べたい友達が、わざわざ東京から来るというので、親父が知り合いから「ミズイカ」を譲ってもらっていた。ミズイカは単独で泳ぐので、原則的に一本釣りだ。田舎でも高級魚で高い。
漁師のイカ釣り舟は、2番イカ(するめいか)もしくは、真イカを大量に釣る。
小寺君と西口君には嫌って言うほど、イカそうめんを食わせるのが今回の目的だったが、今日は田舎でもめったに食えないミズイカだ。
「こんな美味いもの毎日食ってるのか?」と小寺君と西口君は大いに満足した。
夕食後、高台の家の窓から海の方向を見る。
ここは西海国立公園の真っ只中だ。
イカも確かに美味しかったが、彼らには、この景色こそ最大のご馳走だったのかもしれない。
空には、いつの間にか「満天の星」そして海にはイカ釣り魚船団の「いさり火」が広がっていた。
きらきらと輝く光が冬の空と海を埋め尽くしていた。
おしまい
「朝野君、黒田君、高山君、坂本君の4人で、体育教官室にクレームをつけにいったらしいぞ」
と、大久保君が笑いながら小生に言った。
「えっ!どうしたの?」と、小生。
(写真は錦織選手の、フォアハンドエアー)
前回、大学2年の時はほとんど学校に行かなかったことを書いた。
「今日も、100円損した」と一日が終わる夜の飲み屋でよく言ったものだ。
昭和50年入学の国立大学の授業料は、年間36000円で、日割りで、ほぼ100円。
その気になれば一年分の授業料を5日ほどのアルバイトで稼げた。
国民の税金を無駄にする罰当たり者だった。
いや、正確にいうと、少しは学校に行った。
2学年次の教養科目に必修科目があったのだ。
外国語や専門の概論、体育などだ。
出欠が単位に響く先生の場合は代返(代理返事)で友達に頑張ってもらった。
見返りは、パチンコ屋の景品のセブンスターやチョコレートだった。
しかし代返は、しばしばトラブルになった。
卒業後30年以上経った今でも親友の江藤君は、当時かなり代返を引き受けてくれたが、途中で「もう、お前の代返はしたくない・・」と弱音をはいた。
2年次の必修の概論で、江藤君が代返してくれたとき、先生が出席簿を見て私に質問をした。もちろん私はいないので、江藤君が答える。
しばらくして、今後は江藤君が当てられた。江藤君は困ったが、しょうがないので自分で答えた。
しかし、先生が私の代わりに答えたことを覚えていて、江藤君の代返がばれた。もちろん先生は江藤君も小生も顔と名前をちゃんと認識していない。
そのあげく、あろうことか江藤君が欠席していて、私が出席し代返したと判断したようだ。
「江藤君は代返で欠席、10点マイナス」と言われたらしい。
「名前のイメージだけで、俺が欠席扱いされちゃったよ・・・」と江藤君はぼやいた。
小生の苗字はある有名な学者と同じだ。おかげで勝手によいイメージを持ってもらえることが、この後の人生でも多かった。感謝したい。
体育も必修だ。2年次はテニスを選択した。
しかし、4月から6月くらいまでは、クラブの運営で忙しかった。
4月当初は学内の合宿所に缶詰だったので、体育があるテニスコートまでは200メートルの距離にもかかわらず、行くのが面倒だった。
合宿所に、のちにダブルスを組むことになる農学部の水沼君がいた。小生が体育のテニスをサボることを知ると、水沼君が替わりに行ってくれると言う。
小生は感謝して「水沼、わるいな。大久保君に付いてって」と代返をたのむ。
大久保君は小生と同じクラスだ。
4月早々の体育は2回連続で、水沼君が代理出席してくれた。
しかし、その後も立て続けに春のリーグ戦、東京都国公立戦、三大学戦が幹事校と、学校なんか行ってられない。
体育は出席だけが単位につながる、と分かっていながら、5月末まで欠席し、6月に入り初めて出席した。
テニスコートで体育の先生が出欠を取り始めた。出席番号の関係で小生は最後に呼ばれる。「○○君」
・・・「はい!」と小生。
体育講師は、すかさず意外なことを言った。
「君、代返!」
「私は本人です」と主張したが、聞き入れてもらえなかった。
テニスは一応やった。
高校時代、軟式テニスでインターハイにいった親友と時々ラリーして遊んでいて、少し腕に覚えがある小生は軟式ラケットを器用に操った。
「代返君は割りとやるね・・」と先生。しゃれは分かっているようだ。
体育が終わり、大久保君に「なんで、代返って言われたんだろう?」と聞くと、「あったり前じゃん」
大久保君の説明によると、4月に水沼君が2回出席したが、その際、水沼君はマイラケットを持参し、大いに目だっていたとのこと。あろうことか、水沼君のマイラケットというのは硬式ラケットで、それを振り回して、軟式ボールを豪打していたらしい。さらに、先生とも親しく会話していたという。
「あんなに目立ったんだから、さすがに先生も覚えてるよ」
「ガーン!・・・・水沼のヤロウ」と思ったが、あとの祭りだった。
もし体育の単位が取れなかったら、最悪の事態だ。
翌年、後輩と一緒に授業に1年間出なくてはいけなくなる。
「実に困ったことになった」が、いいアイディアは浮かばなかった。
しょうがない。とりあえず、体育だけは出席しようと努力した。6月からは8割方出席したと記憶している。
もっとも楽しくテニスをするだけなので、授業自体はまったく苦ではない。
テニスは屋外のコートでやる。
だが、雨が降ると、皆で体育館に移動し卓球台をだして、卓球のクロス打ちだ。(人数分の卓球台がないので、一台に付き4人でクロスにラリーする)
東京教育大出の体育の講師の専門はなんだったのだろう。
恐らく球技ではなかったように思う。
ところが、テニスの時はほとんど腕を組んでいるだけなのに、雨で卓球になると、自分もラケットを持ってやりたがる。
素人なのにスマッシュが打てた。
関東学連の4部と5部を行ききするチームの一員であったが、高校から卓球を本格的にやった小生は素人のスマッシュくらいは軽く返す。
素人相手のスマッシュならばスマッシュでも返せるが、そんな大人げないことはしない。
体育講師は授業時間中ずっと小生とラリーを楽しんだ。
スマッシュを相手がまたスマッシュしやすいコースに適度なスピードで返し、先生がミスするまで、ラリーが続く。
確かに、素人には楽しい遊びだった。
「何とか単位だけはもらえそうだ」
その年は雨が多かったのか、5回ほど、体育館で体育講師と卓球をしたことを覚えている。
3月になり、大学本部の教務室に成績表をもらいにいった。
前にも書いたが、2年から3年次の進級は無条件でできる。が、予測はついたが、散々の成績だった。
「ほとんど大学行かないとここまでひどいか!」と後悔した。
全部で12単位しか取れていない。
しかしながら、必修の英語、問題の概論そして体育はなんとか単位がついていた。
そして驚くべきことに、体育はA(優)だった。
最低限の成績であったが、2学年次を社会勉強にまわす計画は成功したと、自分に言い聞かせた。(いつの間にか社会勉強にすり替わっているが・・笑)
話をもどす。
冒頭のクレームだ。
体育教官室にクレームを言いに行った同級生4名は全員、体育の授業は皆勤だったとのこと。
もっとも小生を除くほとんどの人が皆勤なのだが・・・
小生には、同級生4名の主張は良く理解できた。
つまり、4月の最初から代返者を立て、その代返者が、軟式テニスにもかかわらず、公式ラケットを振り回し皆に迷惑をかけ、なお且つ本人は6月くらいにのこのこ出席する始末。
そして、体育講師はその代返(不正)をはっきりと認識していた。
ところが、そのような輩(やから)の成績がAだと聞いた。
客観的に小生もこれはありえないと思った。文句も言いたくなるだろう。
気の毒なことに、4名は単位は取れたものの、2名がBであとの2名はCだったとのこと。
大久保君は笑いながら教えてくれた。ちなみに大久保君はAだったそうだ。
「それで、教官室では、どんなことになっちゃったの?」小生は心配になり聞いた。
「世の中って、そんなもんだ!」って、言われたらしいよ、と大久保君。
4名は体育講師に大きな声で
「世の中って、そんなもんだ!」
と一括され、さらに
「そんなことも分からないから、君たちはBとかCなんだ」
と追い討ちされ、教官室からすごすごと出てきたらしい。
4人には申し訳なく思ったが、この事件により、小生は19歳にして、世の中は「ごますり」が大事だと、学んだ。
おしまい
昭和50年3月31日 九州商船のフェリーボートが佐世保港に到着した。
小さなバッグと、ギターケースを抱えた小生は希望に胸を膨らませて九州本土に降り立った。
高校の先輩の中井さんが勤めている近畿日本ツーリストは港から佐世保駅までの途中にあった。
受付で中井さんをお願いすると、忙しそうに出てきた。「一緒にコーヒーでも飲もうよ。もう少し時間かかるから、玉屋の入り口で1時でいい?」
受験シーズン、中井さんには大変世話になった。
五島列島から国鉄の切符を事前に手に入れることが出来るとは、思ってもいなかった。
仕事とは言え、電話一本で間違いなく、さくら、みずほ、はやぶさの夜行寝台の切符を用意してくれた。
まさか自分が東京の大学に行くなどと、つい3日前まで、考えてもいなかった。
紆余曲折あり、昨日決断したばかりだった。
両親はとまどったが、浪人するよりいいだろうとの判断か、学校に寮があり、寮費が安そうなので、費用に大きな問題を感じず、息子の決断を追認した。
根拠もないのに、一期校に合格するとの自信があった小生は不合格が判明した3月中旬、浪人を覚悟し、予備校を長崎にするか福岡にするかの決断をしようとしていた。
従妹の姉ちゃんがいる福岡にしたいと思い水城学園の資料も取り寄せた。この場におよんででも、少しでも都会で過ごすことを画策した。
天神の照和に行きたいことが親にばれると、長崎の予備校になってしまうので、それはおくびにも出さず「やっぱり、水城がよかよ」と九州大学の合格者実績を比較して親にアピールしていた。
複数の学校を受験したので、今のところ、合格は2校もらっていたが、遠いとか、費用が高くなりそうだとか、行きたくないなどの理由で検討からはもれていた。
ところが、3月中旬から受験していた京都の公立と東京の二期校から、土壇場の3月下旬になって、さらに合格をもらってしまった。
実はこの2校の合格は予想外だった。なぜなら、理科と社会を自分の得意の科目で選択できなかったからだ。
もちろん一通り、授業を受けて高校での単位にはなっていたが、受験科目として勉強しなかった科目での受けざるを得なかった。
卓球の試合と重なり、行けなかった修学旅行代わりに、選択科目が合わないにもかかわらず、受験をたてに京都、東京に行ってきた大学だった。
合格の確率は極めて低いので、観光してリラックスして臨んだことが、かえってよい結果になったのかも知れない。
この結果を、春休みに入っていた学校に相談に行った。
担任は帰省しており留守、転勤が決まっていた副担任の先生の引越し準備に追われる教員宿舎に行った。
東京の学校出身の副担任は「よかったね。よかった、よかった」
小生が「合格した大学が九州でないので、浪人しようかな・・・」と言うと。
来年は新課程になるのに浪人するなんてとんでもない。国立に折角合格したんだから、絶対行ったほうがいい。と忙しそうに言った。
引越しの準備で忙しいのに、何とバカな相談してるのか。と思っているようだ。
家庭の事情など相談するムードではないので、自宅に帰って相談することにした。
親は黙っていた。
判断する材料を持っていなかった。
遠くは心配だし、費用も心配だと言いたいようだが、親として浪人を薦める根拠もない。
先生が言った「新課程」とは、小生の1年下の学年から教育課程が新しくなっていたことを指している。浪人すると、来年は新しい課程の試験問題になるので、小生の世代が浪人するのは不利と言われていた。
自分で結論を出すしかなかった。それも即刻、決断するしかなかった。
二期校の入学金納付は4月2日までと書いてある。もう時間がない。
以上の理由で急遽、中井さんに電話して翌日の特急寝台「さくら号」東京行きの切符を予約してもらったのだった。
まさかの展開だったが、東京に行けることになった小生は内心、大喜びだった。
二期校の受験の際、学校の寮に泊めてもらったので、費用のことも含め説得力のある説明できた。
京都の公立は四条河原町の旅館に泊まって受験したので、住むイメージが湧かなかったし、京都まで行くのなら東京でも同じだ。
九州でない場所は、五島列島から見ると、どこでも遠いところだった。
かくして、この日、佐世保にギターを持って降り立ったのだった。
順調にいけば、明日の午前中に東京に着くので、その足で学校に行って入学金を納付すれば、あとは何とでもなるだろう。
まずは、ジャンジャンに行ってみよう。コンサートは「吉田拓郎」か「かぐや姫」に行かなくては・・・
などと考えながら、中井さんを待つべく、四か町商店街のアーケードに入った。中井さんが指定した玉屋は長いアーケード街を抜けたところにある。
1時までは時間があるので、ぶらぶらと寄り道をした。
「そうだ、カポ買わなくちゃ」
提げているギターを買った楽器屋さんに寄って、金属製のカポスタートを買った。
今から、本格的にギターをやるんだから、今持っている布ゴムを巻きつけるタイプのカポでは東京では格好悪いかも、と見えを張った。
ついでにピックも買う。高校時代はプラの下敷きで何枚も作った自家製で友人も喜んでくれたが、何しろ東京に行くのだ。
楽器屋の次は電気屋に行く。買うわけではないが、いつか揃えるであろうオーディオを見る。
東京には秋葉原という町があって、そこでコンポを揃える計画だ。
田舎とはいえ、佐世保は長崎では2番目に大きな町だ。その中のアーケードに構える電気屋は恐らく都会と遜色ないアンプやスピーカーが置いてあった。
「やっぱ JBLはいい音だすな」
憧れのJBLのスピーカーからポールサイモンとアートガーファンクルのハーモニーが聞える。
隣のダイアトーンのスピーカーからは、ラジオが流れていた。昼どきで、地元のニュースが流れている。
次の瞬間、小生はとんでもないニュースを聞いてしまった。
「ここで、ニュースがはいりました。南こうせつとかぐや姫が解散するということです」「人気フォークグループのかぐや姫が解散というニュースが入っております」
がーん!
ショックだった。
かぐや姫は青春そのものだ。
高校時代の美しい思い出だ。クラスの女子とカセットの交換もした。
今から、見に行くつもりだったのに・・・
後から知ったことだったが、4月12日の神田共立講堂が最後のコンサートだった。
LPレコードでは擦り切れるほど聞いたが、東京に行ったら、何処よりも先にアビーロードの町を歩いてみたかった。
その、かぐや姫が解散だという。
中井さんが、玉屋に来て一緒におしゃれな洋食屋に入った。
さすが、社会人かっこいい。
「ランチ食べる?」
「おなか空いてないので・・・」
中井さんはおいしそうなハンバーグランチを食べたが、小生はかぐや姫ショックで、食欲がなく、紅茶を飲んだ。
中井さんに、かぐや姫のことを言ったが「へー?!」っと言っただけで、さほど関心がなかった。
傷心の小生であったが、切符の手配で、さんざんお世話になった中井さんと別れて「さくら号」に乗り込んだ。
傷心のまま東京に着いた2日目、小生は朝から張り切って渋谷まで出た。
ハチ公口の交番で青山通りを教えてもらい、外苑方向に歩く。
「♪あの日の君は傘さして青山通り歩いてた、君は雨の中、ちょうど今日みたいな日だった♪」
イントロのギターから口ずさんだ。よく晴れて、少し汗ばむ歌詞とは違う天候だったが・・・
「♪ビートルズの歌が、聞えてきそうと、二人で渡った交差点♪」
一人ボーカルでコーラスも自分で口ずさみながら、坂道を登った。
本当は東京タワーまで歩く計画だったが、青学のあたりで、めげた。
表参道で左折して、原宿方向へ。ペニーレインに向かう。 吉田拓郎の「ペニーレインでバーボンを」が流行っていた。
「案外、地味な店なんだ」
外から見ただけで、とりあえず満足。
「さて、このあとどうしよう」少し考え「新宿いかなくちゃ」
新宿駅で歌舞伎町の行き方を聞いて、靖国通りを横断する。
正面奥にコマ劇場があった。左に回りこみ、コマの正面に。
空腹に気がついた。コマの前の立ち食いそば屋でうどんをたのむ。
なぜか、スープが黒い・・・
平日の昼間の歌舞伎町は人がまばらだった。
うどんをすすりながら、コマのスピーカーから流れてくる有線を聴いていた。ピンカラ兄弟だった。
お腹が満たされて、コマとミラノの間の広場に出ると、聞えてくる音楽が替わった。
「♪空にあこがれて、空を駆けていく、あの子の命は、ひこうき雲♪」
荒井由美だ。
TBSパックインミュージックのパーソナリティーだった林美雄が天才だと盛んに紹介していたので、注目していた。
「かぐや姫は解散だけど、荒井由美がいい味を出しているし、ジャンジャンとかルイードいけば、未来のスターに会えるかも・・・」
と、東京での生活のスタートに希望を持った。
こうして、小生のギター生活が東京で始まるはずだったのだが・・・
荒井由美については、小生の故郷と少し関係しているが、それは後日書くつもりだ。
つづき
・・・ませんが、
PS
かぐや姫は、この年の4月12日に神田共立講堂で解散コンサートを行い、ファンは泣いた。
ところが、その夏、吉田拓郎が「つま恋コンサート」を企画した。その際、かぐや姫に出演を依頼し、ちゃっかり再結成した。
次回は、その「つま恋」の事を書くつもりだ。
高円寺の北口駅前にレイボーというパチンコ店があった。
小島さんが、わずか1列になってしまった手打ち式の台でねばっている。
インベーダーゲームが一世を風靡したころ、パチンコ店は衰退した。
小生は就職するに当って、パチンコ産業再興案を具体的に作成(卒論の何倍も出来がよかった)、そして桐生のメーカーに売り込んだ。が、「大学まで出て、悪いことは言わないから、真面目な世界で働きなさい」という親切な面接官のアドバイスに説得され、学校に求人のあったつまらない会社に就職した経歴を持つ。
また、同じようなジャンルで、ケイシュウニュースに願書を出し、大川さんから返事をもらった。
小生の就職活動話としては、上記2つと、NHKの話は抜群に面白いので、2年後くらいにまとめたい。
今日は高円寺の話だ。
ちなみに、フィーバーでパチンコ産業が復活するには、この後2年を要する。
小島さんは、電動式ハンドルをコインで固定し腕を組んで、パチンコ台を見つめるゲームに成り果てたパチンコが許せなかった。
手打ち式ハンドルをはじく親指に、魂がこもっている、同時に哀愁を感じながら、後ろから声をかけた。
「やっぱり、ここだった!」と小生。
就職したばかりで、会社の中野の寮に住んでいた私は、小島さんが心配で消息を探した。
学校で後輩の平山君に聞くと、手打ちの台が残っているのは、レインボーくらいだ。と、小島さんが嘆いていたとの情報で、この町に来たのだった。
びっくりして振り向く小島さん「何でここにいるって、分かったんだ?」
小生はそれには応えず「そろそろ、真面目に卒業を考えましょうよ」
小島さんは一つ先輩だが、専門の単位が一つだけ取れておらず、6年生であった。
困ったことに、その専門の単位は教授が退官したので、講義も試験も今年からなくなったという。この切実な問題に対し、小島さんは真面目に向き合っていなかった。
学生寮のマージャン室で知りあった平山君が小島さんと同じ学科であることが判明し、小島さんの4年も下の平山君にこの問題を託したのであった。
平山君の調査の結果、本人が大学の教務室に行って相談すれば解決策が示されるはずだ、とのこと。
OB会などで、先輩たちも小島さんのことが心配で、「お前が一番、小島と接触できるんだから、何とかしろ」と学年も学科も学部も違いキャンパスの場所さえちがう小生に命令した。(先輩達は本部の体育館での卓球の練習と、国分寺での飲み会で小生と喋るので、小生が工学部の学生と知らなかったのだろう)
先輩の命令が、なかったとしても小島さんには4年間お世話になった。もちろん、ほっとく訳にはいかない。
小島さんは、府中のアパートから、お姉さんが住んでいる高円寺に最近引っ越したという。
とにかく、平山君がいる寮に向かった。
寮で探すと、平山くんはマージャン室にいた。
ちょうどいいので、面子を分けて平山君、米田君と小島さん小生で卓を囲み半チャン4~5回。
夜になって晩飯を食べようということになり、「鳥ふじ」へ。焼き鳥を食べながら、善後策を協議した。
忙しかったのか数ヶ月が経過した寒い日、寮を訪ねた。マージャン部屋を覗くと、いた。
小島さん、平山君、米田君、もう一人は保科君だと紹介された。
「え!何でいるんですか?」小生の質問に、小島さん「寮に入ったんだ」という。
小島さんは、潔癖症だった。少なくとも、私と接触した4年間は、アパート生活だったし、遊びに行くと女性の部屋のように、きれいに掃除され、整頓されていた。
浜本くん(吉祥寺、鉄男編に登場した)のように、「寮に住んだらどうですか。楽しいですよ」という、皆の誘いには決してなびかなかった。
予想外だったが、夜を食べに行った「徳寿司」で、何となく理由が分かった。
平山君と米田君は面倒見がよかった。人間味があった。特に平山君は“よいしょ”の達人だった。
数十年たった今でも、これらのメンバーが集まると、関西で役人をやっている平山君の話題になる。
平山君の巧みな話術は卓越していた。客観的には“よいしょ”なのかもしれないが、平山君のそれは、文字にすると、かなり乱暴だ。ほめていないし、称えてもいないのに、言われたインテリは必ず気分がよかった。
米田君も関西の出身だが、品がよく、抜群に気が付く後輩だ。
どうも、あれから何度か寮でマージャンした小島さんは、楽しくて最近入寮したとのこと。
まあこれで、小島さんの卒業も何とかなるだろうと、後輩の平山君に託し少し安心した。
しかし、その後、小生の仕事が忙しくなり、1年くらい皆と会えない時期があった。
そして、次に会った時には、小島さんは8年生になってしまっていた。
久しぶりに寮に行って、平山君に様子を聞くと、小島さんは、一度教務に行って、事情説明をしたものの、教務側もあまり前例がなかったケースだったようで、教授預かりになった。しかし、その後、小島さんが教授に交渉する動きをしていないと言う。
早速、皆で会って相談した。
小島さんは「もういい」と言う。8年かけての卒業証書に価値がないと言う。散々、みんなで説得しても、頑なだ。
ここで、説得している人たちは、私も含め全員後輩だということに気が付いた。平山君は役人に、米田君は一流の電気メーカーに就職が内定している。すでに4年生だった。
心配しているOBに説得してもらうべく、働きかけた。しかし、小島さんは顔向けができないと、拒絶した。
小生の説得がうっとうしくなったのか、その後、寮にも寄り付かなくなり、会えないまま8年が過ぎてしまった。
それからも、ひょっとしてという思いで、高円寺北口のレインボーを何度か覗いた。
わずか数年で、手打ちのパチンコ台も消滅し、小島さんがいるはずもなかったが・・・
そして、小島さんとは現在も音信不通だ。
30年が経過した今でも、学校の近所で年に一回くらい小島さんの子分が10人くらい集まる。平山君は地域的な制約があるので来れないが、米田君や谷山君が招集してくれる。
この集まりに参集する10名ほどは、学校は一緒だけれど、各々の関係性は希薄だ。学年も違うし、学部も違う、クラブも違う、共通しているのは、2年間の小島さんの寮生活の際、子分だったという人たちだ。
利害関係がないので続いているのかもしれないが、全員が、小島さんと遊んだ縁だけで知り合った仲間なのだ。
子分たちは30年続いているが、そこにこれほど慕われた親分はいない。
追記
米田君たちが、年に一回くらい集めてくれる飲み会だが、最近は携帯電話という便利なものがあるので、都合で集まれなかった小島さんの子分に、宴会場から電話する。
もちろん、平山君にも。電話が通じると、出席者全員に回し、それぞれの人と懐かしそうな話をしている。10分くらいすると、一周した携帯が私に帰ってくる。
最初、小生が話した時点では、かつての平山節の片鱗を思わせる巧みでウィットに富んでいる。しかし一周して戻ってきた電話の向こうの平山君の声は震えて、明らかに涙をこぼしながらただただ、私に礼をいう。
言葉にはしないが、平山君は青春時代の仲間と久々に喋ったことの礼と、小島さんを卒業させられなかったのは、自分のせいだと言いたいのだ。
その声を聞きながら、私も込み上げてくる。
「平山君、無理なことを頼んで悪かったね。本当は私の仕事だったんだよ」そして「小島さんは平山君にすごく感謝してるよ」と心の中で言う。
「それじゃ、またな」「がんばれよ」と電話を切る。
皆が私を見て「あんなにいいやつはいなかった」「平山最高」と口々にいう。
宴会が終わると、2卓くらい囲んでのマージャン大会だ。
だれかが必ず小島さんの話を始め、口ぶりをまねる。
爆笑がおこる・・・
おしまい
先月より、書き始めた小生のブログであるが、第一回投稿前に自分の操作ミスにより、2時間分の小説が消失した。
そう、実は小説をブログでシリーズ化して、励みにしようという不純な動機だったのだ。
自分の散歩コースで、花とか鳥とか、少しだけデジカメに撮った中にカワセミがいて、これを貼り付けて投稿して自慢してみたいという動機もあった。
「小説には目標がある」と、最初の稿で書いたが、「よくよく考えるとブログには適さない」と判断した。小説は「ボチボチとワードに綴っていく」と修正したが、「始めてしまったブログの方はどうしよう」と思案し、かつての小生にとって印象深い事件を、記憶のあるうちに書き留めようと考えた。
事件とおぼしき記憶を思いつくままメモ用紙にリストにしてみると、学生時代だけで、100個以上出てきた。「思い出だらけではないか」と、自分ながら少々びっくり。
友人とのエピソードがやはり一番多く、次はギャンブルネタ、他には学校や自分の所属していたクラブなどなど。
ロケーションとしては、吉祥寺、新宿、府中、国分寺、小金井などだ。(残念ながら赤坂、六本木、青山などはほとんど思いつかない)
これは、まったくネタに困ることはない。と、面白かったエピソードを書き始めた。
ところがである。
途中まで、書いては消す作業が大半となることに気が付いた。
このような電子媒体は本来は色々な人に読んでもらうことも目的だが、登場人物が読んだ場合のことも、当然想定されるべきであろう。
古い話であっても、本人、その家族、友人が読むとなんのエピソードか分かってしまうこともある。そして、万が一迷惑かけることになったら?と思った瞬間にボツになって削除する。
言葉にして喋ることにはリスクをまったく感じない事でも、書いてしまう事は問題かもということに気付かされた。
(作家とか記者とかいう職業は大変なんでしょうね)
今更のことであるが、「そうか、なるほど、そういうことで、自分の日記形式で書く人が多いのか!」と少し納得した。
前置きが長くなった。
20歳前後の吉祥寺や新宿ネタは山ほどある、ことに気が付いたことはよいが、公開できないエピソードも自分としてはこの際なので記憶を記録ししておきたいという問題をどのように解決するのか?
ワープロに書いて、公開できると判断したものだけを投稿するという手法で始めるべきであったと、後悔している。(所詮、同窓会の昔話ネタではあるけれども・・・)
吉祥寺2の記事を何度か書き始めたが、以上のような理由で都合4作がボツになった。4作中2作は本人確認さえ取れれば、問題ないと思うのだが・・・このために連絡を取るのは恥ずかしい。(何やってんだ。バカじゃねぇの、って言われそう)
個人的には、面白いと思えるネタほど、プライバシーがあやしいことに気がついた。プライバシーというものには時効はないのかもしれない・・・
そのような訳で、この原稿からワードに書いている。ボツにするかどうかは別として、記録できる。(今更だが、パソコンは便利だ)
そして、この原稿を書いているうちに、プライバシーを気にしなくてよさそうな、吉祥寺の思い出を2作、思いついた。芸能ネタも入っており、会心作が期待できる。
少し表現が難しそうだが、吉祥寺3と4を、いつの日か書いてみたい。
おしまい