Miraのblog

小説はじめました

NHK物語 4 完結の巻

2024-04-28 19:49:27 | 小説「NHK物語」

12月上旬の昼すぎ、就職活動の反省会が居酒屋松野家で開催された。
 寮の親しいマージャン仲間が中心だった。
 
石田さん、松本さん、江藤くん、大久保くん、前田くん、そして小生だった。
さん付けは留年組、先輩である。
 
 幸いなことに、全員の就職先が決まっていて、その打ち上げが目的だった。
 留年組の先輩2人はプレッシャーから解放され、饒舌だった。
 
 特に石田さんは、10社以上に落ちて不本意ながら大手とは言えない会社に決まったようだが、嬉しそうだった。
 
 石田さんが、一人ひとりに聞いた。
「松本、本当はどこに行きたかった?」
松本さんは、食品会社に決まったが、第一希望は明治乳業だったと答えた。
 石田さんは「よーし、明日からここにいる全員、明治のチョコレートと牛乳は飲まないように!」
 
昼間から酔っ払っていた。
 
 明治の牛乳は明治乳業だが、チョコレートは明治製菓だ。が、石田さんには関係ない。
 
「江藤、お前はどこに行きたかった?」
江藤君はアパレル大手に決まったが、本来は印刷会社希望だった。
「よーし、全員、その会社の印刷物は読まないこと!」と石田さん。
 かなり大きな印刷会社なので、不可能だと思うのだが・・・
しかし、みんな笑って盛り上がった。
 皆、酔っ払っていた。
 
 大久保君や前田君の第一希望の会社も全員で使わないと約束した。
 
小生の番になった。
 
小生の本命は遊技機かケイシュウニュースだったが、これらは話が、ややこしくなりそうなので、NHKが第一志望だったと報告した。
そして、NHKでの試験のことと、その時思い出した議員事務所からの電話のことを披露した。
 これには、松本さんが食いついた。
「その電話って、要するに政治家の圧力で就職させてやる。ってことじゃなかったのか?」
 小生は、そんな角度で物事を考えたことがなかったので、びっくりした。
 皆が「そうだ。そうだよ」と松本論を支持した。
「もったいないから、今からでも、頼んでみろよ」と松本さん。
 
「えぇー!いいですよ。もう決めましたし」と小生。
 
石田さんが、言った。
「よーし、明日から全員NHKは見ないように!」
 
 いままでは、石田さんの提案に、全員が笑って同意していたが、これには皆が反対した。
「石田さんだって、NHKの好きな番組見るでしょう」
 
「そうか・・・?」石田さんは唸った。
 
そして、何を思ったか、NHKに電話すると言い出した。
石田さんは酔っ払うと、いままで沢山の事件を起こしていた。
 
皆が止めるのに、松野家の赤電話から、NHKに電話を始めた。
 この人が暴れると、ろくなことがないことを全員が知っていた。
通常は、おとなしくて、いい人なのだが・・・
 
 皆から10円玉を集めて、長期戦の構えだ。
NHKに通じたようで、最初は人事課の人と話をしているようだ。
 なんだか、小生に合格通知を出すように迫っている。
担当が違ったのか、何回かたらい回しになっても、一生懸命に訴えている。
小生だけが、「石田さん、もういいですよ」というが、みんな面白がって、止めようともしないし、かえってけしかける始末。
 電話の向こうの声はほとんど聞こえないので、酔っ払った石田さんが言っている内容で、推測するしかない。
石田さんは時々、どういう人と話をしてるのかを皆に報告する。
 しかし、石田さんが思う担当者には、中々つながらなかった。
 
しばらくして、石田さんは、今度は偉い人に替わってもらった。といったが、話せば話すほど、声が大きくなっていった。
「ふざけるな!」とか「誠実に対応しないのなら、視聴料を払わんぞ」とか言い始めた。
電話の相手は酔っ払いか嫌がらせの人からの電話ととったようだ。そうには違いないが・・・
 
どうも話の筋がずれて来て、NHKが不誠実なら、視聴料を払わない方向の話になってきている。
 
石田さんの声が益々大きくなった。
そして、叫ぶように言い始めた。
「皆、証人だぞ。NHK管理課課長の奥野さんが、払うなと言っている。よし、今から言う者は全員一生払わない。工学部化学工学4年の石田、同じく農学部農芸化学科4年の松本、同じく・・・・そして最後に小生の学科と名前を言った」
 そして、「奥野さん、ちゃんとメモしましたか?NHKが取りに来てもこの6名は絶対払わないからな!」「奥野さんと約束したから払わないって、集金にきた人にいうからね!」
 
NHKの奥野課長という人は「はい、はい、あんた達には集金にも行かないよ!」って言っていた。と石田さんが電話を切ったあと、皆に報告した。
 
ともかく石田さんが暴れることなく、決着してよかった。
この日は最後まで、石田さんは視聴料にこだわり続け、みんなに払わないように言い続けた。
 
 石田さんの武勇伝は、多くの物語が書けるほど、豊富だ。いくつかには小生も加わったり目撃したりした。すごい人だった。
 小生はこの問題をよく起こす人が好きだった。純粋な人だった。
 
翌年、全員が就職して、違う道を歩き始めた。
石田さんとは卒業後、2度ほど会ったが、その後ご無沙汰している。
 
小生は石田さんとの約束を守った。いや守ろうとした。
当初、NHKの人が視聴料の集金に来ても、奥野課長さんに聞いてくださいと、このときのことを説明した。
NHKの集金担当者が変わるたびに説明した。
皆さん、奥野課長さんと連絡したのか、督促には来なかった。
 
その後、個人的な事情だが、結婚した。
 
ある日、わが家の玄関に、NHKのシールが張ってあることに気がついた。
 嫁に聞くと、NHKが来たから、普通に払ったという。
 
嫁に事情を説明した。
石田さんや仲間との「青春の誓い」を熱く語り説明した。
 
「ふーん・・・」と嫁は関心なさげに聞いていたものの、玄関にシールが張っていないと、近所に体裁が悪いと主張した。
さらに、親戚が訪ねて来た時にNHKのシールがないと、見っともない、という。
 たったそれだけの理由で、私の話に対し、聞く耳を持たなかった。
 
 そして、小生と石田さんとの「男の約束」を、くだらないものとして、あっさりと反故にした。
 
 その後、当家の玄関には、ずっとNHKのシールが張ってある。
  時々そのシールを眺めて、つぶやく
 
「石田さん、ごめんなさい・・・」
 
 完


NHK物語 3

2024-04-28 19:46:22 | 小説「NHK物語」

NHKのことは忘れていた。
 
 11月2週目の学園祭に向けて、寮の大部屋を借りて合宿に入っていた。
 卓球部のイベントは10年以上の歴史がある多摩地区の卓球大会の運営だった。
明治の元勲、大久保利通公創設の当校の学園祭は、朝市で安い新鮮な野菜が買えることや、自家製カルピスが配られたりして、地元では人気がある。
 
参加する100チームほどの卓球の選手達も安い参加費で学園際を楽しみながらの大会だった。
 家族で試合を応援に来て、試合の合間に買い物も出来るし、負けてしまったチームも学園祭を楽しんで帰る。
数年前、存続の危機があったが、私たちの年代で確立した大会に仕上げていかなければならない。
  準備も佳境で、忙しかった。
ちょうど明日に迫った大会の運営に関する打ち合わせを、下級生幹部としていたとき、小生に「お電話」のアナウンスがあった。
前にも書いたが、「電話」は男で、「お電話」は女の人からの電話だ。
  合宿所の皆が「ヒューヒュー」いう中で、小生は「ちょっと、待っててな」と、寮の廊下にある内線を取った。
 
確かに女性の声だった。
 
「私、オサダ事務所の者ですが」
 
女性は私の名前を再確認すると、意外なことをいった。
「NHKの試験を受けましたよね?」
 
オサダという名前は一人知っていた。
こちらは知っていたが、先方は小生を知らない。
「長田裕二?」
 
 小生が高校生のとき、参議院選挙があった。
全国区の選挙ポスターを貼って来てくれと、親父に頼まれた。
そのポスターの候補者が長田裕二という名前だった。
 
  選挙にまったく興味のない小生は言われるまま、言われた数箇所の場所にポスターを貼った。
今、考えてみると、全国郵便局長会が推薦していた候補者だったのだろう。典型的な郵政族議員だ。
  夏休み帰省時、親父が、なにかの大臣になったと言っていたことを思い出した。
 
その大臣事務所の人が何故、NHKを受けたと知っているのだろうか?
 
 電話なので表情までは、わからないが、何だか上から目線の質問に感じた。
「はい受けましたが」と、素直に答えると、女性は意外なことを言った。
 
「少し、点が足りないんですよ」
 
何を言っているのか、分からなかった。
答えようがないので、少し考えていた。
 
女性は少し、優しい口調になって、再度繰り返した。
 
「少しだけ、合格点に足りないようなんです」
 
小生はやっと頭が回り始めた。
つまり、大臣ともなると、国営放送の採用者の合否なども知ることが出来るのかもしれない。もしかすると、選挙で応援したことなど考えあわせると、田舎の親父が頼んだのかもしれない。
 
 でも、点が足りないと言う。
 
商社の内定はもらったが、もちろんNHKなら喜んで就職したいと思う。が、点数が足りないとの連絡だ。
合格通知なら歓迎だが、不合格の通知を、よりによって、議員事務所が教えてくれたのだ。
なぜか、隣の席で試験を受けた慶応の学生のことを思い出していた。
「あの野郎、口ほどにもない奴だ・・・」と、心の中でつぶやいた。
 
少し複雑な心境だったが、そもそも期待していなかったので、冷静を装い「わざわざ、お知らせありがとうございました」とお礼を言った。
 
ところが、又も女性の口調が上からに変わった。
 
「それで、いいんですか?」
 
小生「点が足りないんですよね?」
女性「はい、足りません」
 
「じゃぁ、しょうがないですよね」「ありがとうございました」と言って電話を切ろうとすると、
 
「本当に、それでいいのですか?」
 
忙しかった小生は「落ちた人にまで、お気遣いありがとうございます」と言って電話を切った。
 
しばらく、この出来事も忘れていた。
 
自分の学校での開催にも関わらず、多摩地区の強いチームが出てくるこの大会で小生の学校のチームは、ベスト8にも入ったことがない。
1チーム4人で運営されるこの大会は、2人が絶対的に強いと勝ち進む。ダブルスが1試合シングルスが4試合の合計5試合、3試合先取で勝敗が決まる。
強い2人がシングルスで勝って、ダブルスも組んで勝てば、あとの2人は弱くていいのだ。
   小生と1年生の後半からダブルスを組んだ水沼君が絶好調だった。小生も学生最後の試合との思いが強く、集大成の試合を続けた。
 
   結果は、準々決勝で法政大学(レギュラーチームではなかったが)を破ってベスト4に入ったのだ。
残念ながら準決勝では、優勝した国立のクラブチームに惜敗するも、これは快挙だった。
 
卓球を続けてよかったと、心から思った。
卓球人生の最後にベストゲームができた。
 
この時もらった3位の盾は我が家の家宝となった。
 
このような興奮もあって、NHKのことは忘れていた。
 
つづく


NHK 物語 2

2024-04-28 19:43:01 | 小説「NHK物語」

「息子は公務員になって、田舎にもどってこないかもしれない」
と夏休みに帰省した小生を見て、小生の親は思ったようだ。
 
  予定通り、全国の友人宅を旅し、九月中旬に東京に戻った小生に、故郷から、いくつかの資料が送られてきた。
 郵政関連のものが、多い。
 
 親父は田舎の郵便局長だった。
 徴兵され中国へ、終戦後、帰還すると、田舎で学校の先生になったが、公職追放で空きになった田舎の郵便局長になった。
 もともと、一族の土地で明治以降運営していた郵便局であり、兄が公職追放になったが、弟の父が収まった形だ。
 
 学校の先生には未練があった様だが、実家の命令なので、逆らえなかったようだ。
 
 その様なこともあり、親父にとって紹介できる資料が郵政関係だった。息子の為に出来るだけ集めたのだろう。
 親の心子知らずで、小生は全く感謝しなかった。正直、鬱陶しく思えた。
 
 郵便、郵政に関しては、子供心にも拒絶反応があった。
この拒絶反応には理由があるが、長くなるし本題とあまり関係がないので、ここでは書かない。
 ちなみに、昭和51年の正月、年賀状の遅配がおこり社会問題となったが、この事件は小生が田舎に帰って仕事をしない決定打となった。
 
 資料の中には、面白い進路や就職先も存在した。
例えば、松下政経塾、政治家秘書、大学の研究助手、NHKなどだ。
 政治関係は親戚に政治家が何人かいたことによるものだった。
研究助手はこれも、親戚に教授がいて、この大学で、研究者として働くことを勧めた内容だった。
 知らなかったが、NHKは郵政省の管轄下だったようだ。
 
 親戚が関わっている紹介先にはアポイントをとって、話を聞きに行った。
 当家を代表して親戚に不義理を詫びることも兼ねていたが、社会人になることの不安もあった。
そのため、親戚に話を聞いて勉強したい気持ちも正直あった。
 初対面の人もいたが、どの人も小生の実家に敬意を持ってくれており、私に対しても真摯に接してくれた。
そして、小生の親戚はどの人も正しいアドバイスをくれた。
 
すなわち
「興味を持って打ち込めるものを仕事にしなさい」
と一様に言った。
 
 残念ながら、親戚の紹介先の仕事には、もう一つ興味が湧かなかった。
 また、自分の適性を見極められない状況で、親戚に迷惑をかけ、さらに実家に恥をかかせる可能性を恐れた。
 
 結果、皆さんに丁重にお礼を申しあげ、退散した。
 
 以上の理由で小生の第一希望は遊技機の開発、第二希望はケイシュウニュースのトラックマンとなった。
しかし、自分なりに努力はしたものの、これらの希望は叶うことはなかった。
 これら二つの話は、実に面白すぎるので、又の機会に書きたい。
 
 しかして、親父が資料を送ってくれた中で、小生が本格的に応募したのはNHKだけだった。
 
 第一希望、第二希望も含め学校に求人のある民間会社のいくつかを、応募することにした。
 しかし、東芝の先輩のアドバイス通り、研究室に募集のあったコンピューター関連は教授がどうしても応募してくれと言った2社のみ応募した。
 
 こうして、否応なく9月の中旬、私の青春は終わってしまった。
そして、就職戦線に突入したのだった。
 
10月1日から10日間くらい、各社の試験を受けに行く。
複数に応募したので、スケジュール管理は、むずかしかった。
 
 結果的から先にいうと、行きたいと思った会社以外からは、全て内定をもらった。
 つまり、関心のあった会社はすべて、不採用だった。
 
 関心のあった会社とは、遊技機メーカー、競馬新聞、そしてNHKだった。 
 
 研究室推薦の2社は不幸にも内定がきた。不幸とは、教授が受けるだけで良い、と言ったから応募したのに、内定を辞退したら少し揉めた。いや、一社は大いに揉めた。
 この大いに揉めた方の会社は今でもよく覚えているので、本題とは関係ないが少し余談として紹介する。
 
朝一番から試験を受けに行った。
教室が3つあって、試験の途中で面接を入れるという。試験の時間に制約はなく、面接が終わってからも、答案を書いても良いシステムだった。
小生がいた教室は20人くらいの応募者だった。試験は簡単で30分くらいで書いてしまった。
回りの人は、一通り面接に呼ばれたように思ったが、小生は中々呼ばれない。
2時間くらいが、経過した。
他の教室もあるし、小生の場合は「研究室枠」扱いかもしれず、最後の方かも。と思いながらも、とっくに試験問題は書いてしまって暇だ。試験会場に会社の人がいれば、聞いてみたいのだが、だれもいない。
 
少し心配になってきたのは、この日は昼から大手町の会社での面接が入っているので、もし午前中に終わらないと困る。
 
  面接から戻って試験問題を書いていた人が、一人去り二人去り、誰もいなくなったときには、12時が迫っていた。大手町に1時半に行くには・・・と焦って、会社の1階にある受け付けに、思い切って行って、たずねた。 
 
  受付のお姉さんはびっくりして、どこかに内線で連絡し、すぐに面接会場に連れていってくれた。
 そこでは、既に会社の人が20人くらい集って検討がおこなわれていた。
 
 そして、なぜか20対1の面接がはじまった。
 
 私を案内したお姉さんが常務と呼んだ人が、真ん中に座って主に小生に質問した。
 他の19人は何かニヤケていた。理由はすぐに分かった。
 
「君は今まで、何をしていたのかね」
つまり、とっくに面接は終了しており、なんで君は遅いのか?との質問だった。
19人の中にはクスクス笑っている人もいた。
 
修羅場になると、時々フル回転する小生の頭だが、この時は「まともな答えをする連中ではない」との指示が出た。
 
「呼ばれなかったと、思うのですが・・・」と謙虚に答えたが、案の定、会社のミスを棚に上げた。
「遅いのが変だ。と、思わなかったのかね」と常務。
ほとんど恫喝調だった。
 そして、さらに上から、たたみかけて言った。
 
 「君は行動力がないのでは、ないのかね!」
 
小生は少し考えて、答えた。
 
「恐らく、あなたより、忍耐力があります」
 
 
クスクスとした小さな笑い声が消え、場が静まりかえった。
 19人の中の一人が、小生のこの発言に、「君は不採用だ」と言ってくれたので、若干の気まずさはあったが、「失礼します」と言い残し、この会社をあとにした。
 おかげで、午後からの大手町の面接に間に合った。
 
 ところが数日後、この会社から何度も電話をもらった。さらに重役面接に来いという連絡だった。
スケジュールの都合もあったので、断っていたが、学校にまで電話があったようで、教授までも「あんなに、熱心に言ってくれるのだから、面接に行ってくれないか」と言い出す始末。
 
 「前回、不採用になったはずですし、他の会社の試験もありますので、結構です」
と担当の方に言っても、「とにかく、面接に来てくれ」の一点張りだ。
「常務さんも、私の行動力の無さを問題にしたじゃないですか」
と言うと、困った担当者が
「その常務が、君を是非にも採用したいと言ってるんです」
 
 少し気持ちが動いたが、小生にもプライドがあった。
 
 ちなみに小生は、この会社のあと、午後から面接に行った中堅商社に就職した。
 
本題に戻る。
  
親が推薦したNHKの試験日が近づいていた。
 
 10月中旬すでに内々定をもらっていた小生は気軽にNHKの試験を受けに行った。
 試験会場は代々木だ。
 
試験の内容は一般教養と書いてある。
自信があった。
 
自慢になるが、1年生の時、押坂忍の「テレビクイズQ&Q」に出場した。
 浜岡君が冗談のつもりで、小生の名前を書いて応募したのが、当った。
 浜岡君と江藤君の2人だけが、TBSに応援についてきた。
 
 最初の問題から20点を賭けて、3問目チャンスタイムで、また20点を賭けて、100点に達し、ミリオンステージに挑戦するという快挙に、浜岡君と江藤君は喜んでくれた。
又、テレビで見たクラスの連中が、小生を単なる不良学生ではないと、見直すことなった事件だった。
 ちなみに、ミリオンステージは故あって惨敗した。
 
 一般教養まかせなさい!
 
 ところが、試験会場に到着すると皆が朝日新聞を読んでいる。
受験番号の近い人達と話をすると、一般教養の試験は政治、経済それもここ数年の新聞に取り上げたものらしい。
 
 私の自信は、あまりにも呆気なく崩れた。
この4年間、新聞はスポーツ新聞と、寮にあった赤旗のテレビ欄と、競馬新聞しか読んでいない。
 
 「これは、まずいことになった」と思ったが、しかし、試験自体はマークシートの四択だ。四分の一の確率で当たる。
 「偶然4分の一が全て正解すると100点だな・・・」と、この場に及んでも、お気楽に考えることができる小生の能力は計り知れない。
 
 教室に入ると、たまたま先程、雑談した時、自信があると言っていた慶応の学生が隣に座った。
「ラッキー!」
 
 試験問題が配られた。
 
次のABCDの中に正しい記述が一つだけあります。正しい記号にチェックしなさい。
 
 問題を読んだ。
どの問題もABCD正しいような、正しくないような・・・?
 
 何とか判断つくものは、自分の考えで、まったく判断のつかない問題は、たまたま見えた隣の慶応ボーイを参考にして印をつけた。
 しかし、自分で判断のつく問題は1割もなかったので、偶然だが慶応ボーイと、ほとんど同じ答となった。
 
 元々、NHKの募集のほとんどが文科系であり、理系の募集人員は30人程度であった。そこに頭良さそうな学生が何百人も受けにきたのだ。
 
「こんなもん、受かるわけがない」
 
 帰路、代々木から小金井までの電車の中では、
「一般紙も読まないとダメだな」
と反省した。
が、30分後、武蔵小金井のパチンコ屋にたどり着き、仲間とパティオでコーヒーを飲みながら、スポニチを睨みつけ、菊花賞の予想に熱中していた。
 
つづく


NHK物語 1

2024-04-28 19:38:28 | 小説「NHK物語」

 親ってものは、ありがたいものだ。と気付くのは、かなり年をとってからの様だ。
 大学4年の、この年は忙しかった。
 
 さかのぼると、辛うじて二年生に進級できた。
 しかし、2年次は遊びすぎて、12単位しか取得できず、さすがにあせった。
 我慢して学校に行き、実験も皆勤賞、テストはなりふり構わずの三年次は奇跡の108単位を叩き出した。
 
そして、その結果この年、小生の四年次は卒論だけが残った。
にも関わらず、忙しかったのだ。
 
 三年次には、たくさんの人にお世話になった。
もちろん、小生の4年への進級に協力してくれた人達を指す。が、文字にはできない。
 これらの協力者は、小生の人生において珍しく真面目な方々だった。この人達の人生に汚点があることを書いてしまったら、小生は確実に地獄行きであろう。
  友人には2種類ある。
少し迷惑かけてもシャレで済ましてくれる人と、絶対に迷惑をかけてはいけない人だ。
 
 三年次のストレスの反動もあってか、はたまた最後の学生生活が残り少なくなっていることの焦りがあったからか、遊べるだけ遊ぼうと決断したものの、あまりにも多くのことをやらなくてはいけない。
 特に旅が多くなった。日本各地の友達の家がほとんどの宿泊先だ。
もちろんのことだが、最後の年なので、小生の田舎にも行きたいとの友達のリクエルトが殺到した。
クラブ、クラス、飲み仲間、ギャンブル仲間、それぞれの希望を聞いていると、小生自身が行きたい場所(友達宅にお世話になるのだが)に行けなくなる。小生は五島列島の民宿のニイちゃんではない。
 
 八月初旬から20日までを小生の故郷である五島列島受付日として、帰省。
 7月いっぱいと、8月下旬から9月上旬は日本国中の友達宅を巡った。
 ほとんどが、学割切符の周遊券で鈍行列車の旅だ。
幸いにも、小生の学校には、いろいろな県の出身者が集っていた。さらに小生が住んだ学生寮の400人の住人は全員、地方の人だった。
 
 この旅の為に、お金も必要だった。稼がなければならない。
 
そのような理由で、四年次はクラブは少し控えめにするつもりだったが、一年下の3年生の人数が少なかったこともあり、面倒を見なければならなかった。
 そして、その忙しい合間にお金を作った。
 
 学校には研究室の卒論の打ち合わせくらいしか行かなかった。
その卒論も、分析手法が似ていた隣りの研究室の野本君がほとんど作ってくれた。つまり資料自体は小生が役所に行ってもらってきたが、資料にあるデータをファコムのコンピューターのパンチカードに穴を明けて出してくれたものが、卒論の厚みの99%であり、その作業はすべて野本君がついでにやってくれたのだ。
イメージ 1
小生自身は、卒論の目的を前文に書き、「コンピュター分析という手法で、過去のデータを基に、未来を予測するのは、いかなる産業でも不可能である」と結語に書いただけだった。
コンピュータが、何に使えるかを模索していたこの時代に、先生方の期待を裏切った結論を、小生ただ一人だけ卒論にした。空気が読めない小生のプレゼンに、卒論発表会は、しらけたムードになってしまった。
小生のキャラクターとしては、「受け狙い」で皆が笑ってくれることを期待しての発表だったが、大久保君や江藤君がクスクスと一部で笑ったが、教授や講師は呆然としていたことが印象的だった。
 
時代が流れて、今となっては、その結論が正しかったことは証明されたが、大人げなく配慮に欠けたことは反省している。
 
しかし、野本君が出してくれた分析データはA3版の用紙にギッチリ500枚の大作で、そのボリュームに免じてか、Aがついた。
   仕事がら、未だに必要になることのある理科系の学士様の免許皆伝の成績表の中で、数えるほどしかない「優」であった。
 
  脱線したが、この様に学校には、ほとんど行かなくてよい年だった。だが、忙しかったのだ。
 
 この当時、就職活動の解禁日は4年生の10月1日からだった。
従って、この日までに思い残すことのないようにしようと、強く思った。
 
 研究室の関係もあって、小生は3年生の春休みを使って東芝のコンピュータ部門でアルバイトをした。
 職場は若い人が大半だったが、ほとんどが名だたる学校を卒業したエリートだった。
当時は珍しい高層ビルにオフィスがあり、皆さん忙しそうだ。
 
 勤務は8時半時から午後5時で、アルバイトの小生は5時になると、主任さんに断って帰る。
 せっかくアルバイトしているので、社会人生活や就職活動についてなど親しくなった人に聞いてみたいが、皆さん帰る気配がない。
  数日たった昼休み、たまたま定食を奢ってくれた社員の人に「皆さん、何時位まで仕事してるのですか?」と聞くと「今日のうちに帰りたいな」とポツリ。
隣りで、一緒に定食を喰べていた上智の理工学部を卒業の先輩が、小生の学校を聞き「君どこだったっけ?」
そして「会社の名前だけで就職を決めちゃだめだよ」とアドバイスをくれた。
 
確かに、小生の研究室の先生や先輩は研究室に求人が来るコンピュータのハードウェアの会社に就職することを勧めなかった。
ましてや、それらの会社より規模が劣るソフトウェアの会社は相手にもしなかった。(現実に我々の研究室からソフトウェアの会社に就職したのが3人いたが、成功しているのは、私の卒論を作ってくれた野本君ただ一人だ)
この時代、フォートランという言語がスタンダードだったが、次はコボルになると、ほぼ決定していた。
 幕末期、次は英語が必要と分かっているのに、わざわざオランダ語を勉強している福沢諭吉や大村益次郎の心境だ。
 
 上智の先輩は食事の後、東亜珈琲で冷コーをすすりながら、「俺たちは、忙しい中で次の言語を勉強しなければならない。そして、コボルも一過性になるだろうから、三十歳くらいで、使い物にならなくなって、これだよ」と、空手チョップ風に指先を尖らせた右手を自分の首すじに当てた。
「間違っても、こんな会社に就職しちゃダメだよ」
 
 天下の東芝にして、こんなの状況か!
 
 もちろん小生の成績では推薦さえ、してもらえないのだが、世間の厳しさを感じざるを得なかった。
 
 因みに、コンピューター業界の将来は、この先輩が言った通りになった。
 
 データをわざわざ、パンチカードに打ち込む必要などすぐになくなってしまった。
さらに、今では、小学生でもマウスのクリックで使えるパソコンになって、コマンドを打ち込んで動かしている人はいない。
 
つづく