Miraのblog

小説はじめました

マルゼンスキー

2024-05-01 16:22:03 | 競馬

田舎のNHKの放送でハイセイコーを見た。
高校生だった小生は何で馬がこれほど騒がれるのか、まったく分からなかった。
後に、この馬に騎乗していた増沢騎手が「さらばハイセイコー」という歌まで出して、大ヒットしたのは、小生の大学受験シーズンだった。
九州のどこかの大学行って、その後、良くて公務員にでもなって、ひょっとすると東京タワーを一度も見ない一生かもと覚悟していたが、幸か不幸か東京の大学に進学することになってしまった。
 
 その大久保利通が創設したという学校は府中にあった。
 
学校の農学部に獣医学科とかあり、馬術が強いという。後に知ったことだが、馬術は人の技術の要素が大きいというものの、やはり馬の素質も重要のようで、文字通り人馬一体の競技で、競馬界にコネが強いと素質馬がまわしてもらえるらしい。
 
 その府中に東京競馬場があった。
 当初は単なる興味本位で、先輩に連れて行ってもらった。
 たまたま偶然であるが、この年はスターになる馬の当り年だった。すなわち、トウショウボーイやテンポイントの3歳(当時の馬齢では4歳)だった。
 2年前にハイセイコー人気で第一次競馬ブームと呼ばれた余韻が覚めやらぬ時期であったが、数年後有名になる関西の杉本アナウンサーの客観的とは言いづらい実況も、テンポントからだ。
 この偶然は小生の数少ない自慢である。なにしろ、これらの名馬を生で見ていたのだから・・・
 そして、その翌年、すごい外車を見てしまった。マルゼンスキーだ。
橋本聖子さんの父親の橋本善吉氏の持ち込み馬(受胎した母馬を外国から買ってきて、日本で生まれた馬)だが、日本で種付けした馬以外は、外国産馬の扱いであった。
 橋本善吉氏の物語は長くなるので、いつか別途、書こうと思っている。
 
マルゼンスキーは強すぎた。
 
昭和51年、日本がオイルショックから立ち直りかけようとしていた年、小生はよく競馬場に通った。(通った事情は後述したい・・・いや、しないかもしれない・・・)
 中山で、2レース連続で大差で勝った外車が東京で走るという。ちょうど、学園祭の翌週、寒くなる時期だった。
 府中3歳ステークス(現在は2歳、当時は馬は数え年で、生まれたときは1歳だった。現在は生まれた翌年の正月からすべての馬が1歳になる)肌寒く、雨交じりだった記憶がある。
 このレースには、ヒシスピードという強い馬がいて、外車がどんなレースをするのか。
中山で実物を見てきたマニアックなファンが、その怪物ぶりを解説していた。
「先行して、そのまま行ったきりで、他の馬ははるか後ろを走っていたよ」とのこと。
そんな、馬とロバの競争みたいな話はないだろう、と思いながらも、正直、そんな馬も見てみたい。
 鞍上は中野渡騎手、関東では郷原、岡部、加賀などのリーディング争いとは無縁のジョッキーだった。マルゼンスキー以前ではオークスで一度勝利しているが、あとは、有名なタケシバオーに乗っていたことがある程度。
 
 あいにくの、重馬場であった。トラックの向こう流しから1600mのレースがスタートした。
なぜか、マルゼンスキーは先行しなかった。「中野渡は何を考えてんだ? 重なら当然先行だろう」と、競馬歴1年の小生は生意気にも思った。
 最後の直線でやっと先頭に立つものの、あと100mほどでヒシスピードに差される。粘って差し返したが、どちらが勝ったか分からない。写真判定に場内がどよめいた。
 結果は、ハナ差でマルゼンスキーが勝った。
 
「何だ、大した事ないな」と正直思った。
2週間が経過し、東京開催が終わり、12月から中山競馬場に移った。
当時、小生は上野で、進学塾のアルバイトをしていた。サンスポ片手に上野に行く電車のなかで、次の中山開催の朝日杯3歳ステークスにマルゼンスキーと惜敗したヒシスピードが出ることを発見した。
 中山は船橋出身の先輩と一度行ったことがあるが、わざわざ行こうという気が起きないほど遠い。
 しかし、今回は気になった。←(掛けことばになっております)
前回の府中のレースのあと、競馬と虫にやたら詳しい大先輩の山尾さんと卓球のあとの飲み会で話をしていた。
小生が「府中で見ましたが、マルゼンスキー大したことないですね」との投げかけに、山尾さんは、熱く語りだしたのだ。
 マルゼンスキーの父親のニジンスキーがいかにすごいか。
母親のシルの父のバックパサーの種牡馬としての優秀さ。などの血統論から始まり、中山のデビュー戦を見た印象。
橋本善吉は本来、牛専門で馬は素人であること。
中野渡の騎乗がいかに下手か。
中野渡は余計なことはしないで、とにかくマルゼンスキーにしがみついていれば、いいんだ。等々
 
 要するに、お前がマルゼンスキーを語るのは10年速いと説教された。
 そして、結論的には、2400mまでなら、現在の日本では無敵だと言う。
 
山尾さんに説教された自分が何もしらなかったことを思い知らされたが、一般的な競馬ファンはそんなことを知った上で馬券は買っていない。ケイシュウニュースの大川慶次郎さんの印を参考に、いや、そのまんま買っているだけなのだ。
 
 しかし、そのようなこともあって、気になった。
 「えぇー、中山」と嫌がる野沢君を無理に誘い、中山に行った。
新聞の印はマルゼンスキー、ヒシスピードがほぼ互角。小生は勝負のときは、単勝買いが多かったが、今回は予想がつかず、この2頭の連勝複式馬券を握りしめた。
 12月上旬だが、それほど寒くなく快晴。良馬場であった。
 
中山の1600mがスタートした。マルゼンスキーは先行した。鞍上は山尾さんに“下手くそ”と言われた中野渡、そういう先入観で見ると心配になる。なにかマルゼンスキーにしがみついているようにも見える。
 一方、ヒシスピードの鞍上は売り出し中の小島太(のちに地元府中のサクラの馬に乗って活躍する騎手だ)
 3コーナーで5馬身ほど、マルゼンスキーがリード。このあと、ヒシスピードが追い込むのか。
 小島が追う。しかし、縮まらない。
 4コーナーで小島の鞭が派手にあがる。中野渡は持ったままだ。
さらに、リードが広がり、マルゼンスキーがゴールした。
大差であった。専門的には10馬身以上を大差という。
 
あまりにも、強かった。前回はハナ差だったのに・・・
場内は、唖然としていた。
確かに騎手はただ乗っていただけに見えた。
 
レコードタイムだった。この朝日杯のレコードが更新されるのは、平成と年号が変わった1990年のリンドシェーバーを待たなければならない。
 
冒頭で説明したが、マルゼンスキーは外車だった。日本で生まれたが、外国産馬である以上、出走制限があった。
 この時代は国産馬を育てる目的で、クラシックレース(皐月賞、ダービー、菊花賞、天皇賞など)に外国産馬は出場できなかった。
 朝日杯を見てしまった小生は、すっかりマルゼンスキーにかぶれてしまっていた。
 外車がクラシックに出ちゃいけないことを当然とは思っていたが、こればかりは理不尽と感じた。マルゼンスキーは日本で生まれたのだ。
 特に、この年の4歳は不作だった。
昨年のトウショウボーイ、テンポイントを見ているだけに、スター不在であった。
 
 5月上旬に東京に帰ってきて、オープンレースに楽勝し、デビュー以来の負けなしの6連勝をかざったマルゼンスキー。
 ダービーが近づいたころ、武蔵小金井駅前の”パティオ”でモーニングを食べながら広げたスポーツ紙に、中野渡騎手がマルゼンスキーについてコメントしていた。
「28頭立ての大外枠でもいい。賞金なんか貰わなくていい。他の馬の邪魔もしない。マルゼンスキーに日本ダービーを走らせてくれ」
 不覚にも報知新聞に涙がポタポタ落ちた。
 
夏競馬前の最後の重賞のラジオ短波賞に、マルゼンスキーが出るらしい。さらにトウショウボーイもこのレースに出走予定だという。
 これは世紀のビッグ対決だ!
このレースをどうしても見たい。
競馬仲間みんなで行こうと約束していたのに、直前にトウショウボーイがレース回避して、半年前と同じ野沢君だけが、付いてきた。
「みんな、ミーハーだな」トウショウボーイという有名馬が出ないだけで、マルゼンスキーを見なくていいなんて、「本当の競馬ファンじゃないよな~」と野沢君と愚痴をいいながら、中山に向かった。
 
 結果は大差勝ちだった。
 しかし、レース内容は競馬を語るに相応しいネタを提供してくれた。(ちなみに、小生は、このレースをその後、何度語ったことか・・・)
 
 中山の1800mはスタンド正面からスタートする内回りコース。いつものように、先行して2番手以下の馬をどんどん引き離していく。向こう正面では10馬身以上の悠々としたレース中野渡は持ったままだった。
私はマルゼンスキーだけを見ていた。3コーナーに差し掛かったあたりで、急にマルゼンスキーが止まってしまった。
 故障!発生か? もともと、脚部不安のある馬でこの年の初旬も少し休んでいた。
みるみる間に後続馬との差がつまった。4コーナーで他の馬に並ばれた。
初めて負けるのか・・・と覚悟した。
 中野渡の鞭が高く上がった。
直線の300mだけで、マルゼンスキーは7馬身ちぎった。
 
 2着には、この秋に菊花賞馬になるプレストウコウ。
 
中野渡は、「返し馬の時4コーナーの荒れた馬場を見る為に一度止まったことを馬が覚えていて、こうなった」と言い訳したが、明らかに騎乗ミスだった。コーナーを少しゆるく走ろうとした騎手が抑えたことで、マルゼンスキーがゴールと間違えたのが真相だろう。
 少なくとも、小生はそう確信している。
 
マルゼンスキーのおかげで、秋の競馬は、ついていた。
菊花賞はプレストウコウから買って、ばっちり高配当だった。
 
そして、いよいよ、年末のグランプリレース有馬記念が近づいた。
マルゼンスキーが出られる数少ないビッグレース、いや日本一を決めるレースだった。
中野渡が負傷して、天下の加賀武見騎手が乗るという。
往きも遠いが、復りはさらに遠い中山競馬場に絶対行こうと決めた。もちろん、有馬記念は初めてだ。
 有馬記念直前の12月中旬、突然、「マルゼンスキー出走取り消し、引退か」という東スポの見出しをキヨスクで発見。
 脚部不安が出て、回避とのこと。
 がっかりした。中山はやめた。
 
この年の有馬記念は新宿で見ていた。なぜ、新宿だったのか理由は覚えていない。
レースは去年のチャンピオン馬トウショウボーイが武邦彦(武豊のお父さん)を鞍上に先行し、これについていった鹿戸明のテンポイントのマッチレースとなった。
 テンポイントが昨年の雪辱を晴らし、ゴール前でトウショウボーイをかわし、優勝した。
小生はこの1-3の一点勝負馬券を握りしめて、しっかり取ったが、さほどの喜びはなかった。
 テンポイントはこの後、海外遠征をめざし、その実質的な壮行レースで悲劇がおきるが、これは別の機会に・・・
 
年が明けて、マルゼンスキーは種牡馬となった。
初年度の子供のホリスキーが菊花賞を勝利し、面目を保った。
ちなみに、大川さんも私もホリスキーを本命に推した(笑)
 
数年後、サクラチヨノオーがダービーを勝利し、子供が念願をかなえた。
ちなみに、サクラチヨノオーの鞍上はヒシスピードで何度もマルゼンスキーに負けた小島太騎手だった。
 
残念なのは、日本にはこのころ、ノーザンテーストというダントツのリーディングサイヤーが存在し、いい母馬はノーザンテーストを付けたがった。
 マルゼンスキーの父親のニジンスキーの評価が上がったのは、少しあとのことであった。
 
マルゼンスキーは一度も負けなかった。そして圧倒的に勝った。
 
 その後、強い馬をたくさん見てきたが、これほどの鮮烈な印象を持てた馬はいない。
 
おしまい



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