iwakibb's blog

いわき市役所ラグビー部を母体とする「いわきBlue Braves ラグビーフットボールクラブ」のブログ

波瀾万丈? ~ いわきから水戸編 ~

2009-03-26 23:59:29 | コラム
みなさんこんばんわ

言いだしっぺの○島君からの提供がないので、私が書きます

 工藤慎也(ラグビー暦:磐城高校→茨城大学→ポパイ→ツクバリアンズ→アルパインSG 趣味:娘と筋トレ)

私の人生について振り返ります。長いので2回に分けて。今回はいわき→水戸


スポーツを愛する私は小学生のころは主にソフトボールをやってた。ポジションはキャッチャー

地区の子ども会でやってたので本格的ではなく、楽しくやってた。



小学生のころは親父がママさんバレーのコーチをしていたこともあって中学生になったらバレーボールをやり、将来はオリンピックに出ようと本気で思っていた。

しかし、中学生になって、バレー部の見学をしていたら、隣のバスケット部が楽しそうで結局バスケット部にはいっていた

うちのバスケ部は弱小チームで、地区大会で1回勝つぐらいだったため、市大会にもでれなかったけど、私はNBAを夢見て頑張っていた

そのころから私の才能である努力できることが実り、マイケル・ジョーダンに近づくことはできなかったけど、勉強ではかなり優秀()で、磐城高校に入学することができた


高校では、「やっぱり野球で甲子園」と考えていたが、全国大会に限りなく近いラグビー部に入部した

これが見事に成功し、「一緒に全国制覇しよう」と1年の時前の席だった野球部所属のイカツイ男を勧誘し(後に芋掘り名人と呼ばれた男)、2年、3年と花園の切符を手にした

しかも、3年の時は1回戦圧勝し、2回戦は当時東北NO1だった青森北に負けてしまったが、TVにいっぱい映って、いい気分になっていた

でも、努力できることが才能であった私は勉強もろくにせず、ラグビーと遊びに夢中であったため、いい大学には進学できず、3流国立大に行くこととなった。




ラグビー部はあったけど、全然強くないし、部員数もギリギリ。「俺が強くしてやる」なんて思って入部したけど、・・・

小芝のような感じで、ラグビー・バイト・・ゲロ・ラグビー・バイト・・ゲロ・ラグビー・バイト・・ゲロ 

飲み会の数も半端じゃなく、週に3回ぐらいは記憶がなかった

パチンコでは必ず景品をビールに換え、家には常にビールの箱が7~8箱あった

さらに、猫(ネネというオス猫)と同居しており、酒とうんこの臭いで・・・

こんな状態でラグビーが強くなるはずはなかった


さらに、車を廃車にするほどの事故を起こし、1年留年し、親の反対を押し切ってパチンコ屋に就職。


パチンコ屋といっても、アミューズメントのグループ会社で、中身はかなりしっかりしている。

親の反対を押し切ってまで就職した理由は、若いうちにマネジメントさせてくれること。と、言っても50人ぐらいのバイトさんの管理をしたりすることだけど。

ほかにも、釘・設定・予算・ホールコントロール等等、たくさんやったし楽しかった

朝のラッシュに紛れて帰宅し、朝のニュースを見ながらビール飲んでいたのは懐かしいな

怖いおじさんに連れて行かれそうになったり、中国人のゴト師グループに国道沿いでボコボコにされ入院したこともあったけど、今の俺があるのはこの会社のおかげ。

社会の厳しさ、仕事の進め方、人間関係・・ いろいろ学びました。



でも、・・・長男であったこと、また、ラグビーへの思いは残っていたことから、3年で会社を退職することとしました

決定的なことは、就職していたころ所属していたクラブチーム(練習はしないで年に3回ぐらい試合だけ出てた)で、筑波大や茗渓学園OBが多く所属するツクバリアンズと試合をしたこと。

結果はボロ負けだけど、有名な選手はいるし、みんな楽しそうにラグビーやってるし、俺もまざりてー

(当時27歳) 親に、「俺つくばに行くから」 と電話して会社を辞め、水戸からつくばへ旅立ちました・・・



続く