藤原氏の深掘り、、、良房の次は、その養子にあたる「藤原基経」ですね。(^。^)
876年、摂政,880年、太政大臣。
884年、陽成天皇を廃し、光孝天皇を即位させて関白と同様の立場に立った。
887年、宇多天皇を擁立して正式に関白の称号を得た。
これを契機としておこった阿衡(あこう)事件によって、関白の権威を天皇に認めさせ、藤原氏の摂関政治を確立した。
と、ネットの解説がありました。m(__)m
いよいよ摂関政治の本格化が始まったわけですね。(^。^)
それにしても、この「阿衡事件」は、何とも摩訶不思議な出来事でした。(^-^)
阿衡事件とは、基経に関白就任を求める天皇の詔のなかに、基経を「 阿衡 」(あこう)に任じるという語があったが、基経は中国の古典では「阿衡」は名ばかりの名誉職に過ぎないと抗議したため、天皇は詔を撤回して、その起草者の 橘広相(たちばなひろみ)を処分した事件。
ネットには、以上のように記されており、現代の我々の感覚では、「んで、どうしたの?」と問い直したくなるような内容です。(^_^)
要は、「阿衡、即ち、何もしない閑職とは何事か?」と、基経が宇多天皇にイチャモン付けて、タテ突いたわけですね!!(◎_◎;)
結果、宇多天皇が藤原基経に譲歩することになり、藤原氏の強い権威を世に示し、天皇は起草者の橘広相 (ひろみ) を処罰までして事件を解決した。(^。^)
ここでも、藤原氏の他氏排斥が成功し、摂関政治が盤石となったわけですね。m(__)m
この基経、摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。
陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立て、政務を委任された。光孝天皇・宇多天皇期の執政は、日本史上初の関白であったとされる。
確かに、陽成天皇という人物は、難儀だったようです。( ; _ ; )/~~~
後の記録には、陽成天皇は暴君として描かれており、それによると天皇は蛙、蛇を捕え、または犬と猿を闘わせて喜び、人を木に登らせて墜落死させたという、とあります。(^_^)
いずれにしても、藤原基経は、叔父の良房に見込まれて養子となった時から、権力の座へと進み始めたわけですね。( ^_^)/~~~
「胸騒ぐ星の入東風阿衡かな」 祖谷馬関
(注)星の入東風(ほしのいりごち)とは、陰暦十月に吹く北東の風。この場合の星は昴をさし、昴がよく見えるころに吹く風という意味で、天候が不順になりやすい。畿内、中国の船頭のあいだで使われた言葉。
876年、摂政,880年、太政大臣。
884年、陽成天皇を廃し、光孝天皇を即位させて関白と同様の立場に立った。
887年、宇多天皇を擁立して正式に関白の称号を得た。
これを契機としておこった阿衡(あこう)事件によって、関白の権威を天皇に認めさせ、藤原氏の摂関政治を確立した。
と、ネットの解説がありました。m(__)m
いよいよ摂関政治の本格化が始まったわけですね。(^。^)
それにしても、この「阿衡事件」は、何とも摩訶不思議な出来事でした。(^-^)
阿衡事件とは、基経に関白就任を求める天皇の詔のなかに、基経を「 阿衡 」(あこう)に任じるという語があったが、基経は中国の古典では「阿衡」は名ばかりの名誉職に過ぎないと抗議したため、天皇は詔を撤回して、その起草者の 橘広相(たちばなひろみ)を処分した事件。
ネットには、以上のように記されており、現代の我々の感覚では、「んで、どうしたの?」と問い直したくなるような内容です。(^_^)
要は、「阿衡、即ち、何もしない閑職とは何事か?」と、基経が宇多天皇にイチャモン付けて、タテ突いたわけですね!!(◎_◎;)
結果、宇多天皇が藤原基経に譲歩することになり、藤原氏の強い権威を世に示し、天皇は起草者の橘広相 (ひろみ) を処罰までして事件を解決した。(^。^)
ここでも、藤原氏の他氏排斥が成功し、摂関政治が盤石となったわけですね。m(__)m
この基経、摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。
陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立て、政務を委任された。光孝天皇・宇多天皇期の執政は、日本史上初の関白であったとされる。
確かに、陽成天皇という人物は、難儀だったようです。( ; _ ; )/~~~
後の記録には、陽成天皇は暴君として描かれており、それによると天皇は蛙、蛇を捕え、または犬と猿を闘わせて喜び、人を木に登らせて墜落死させたという、とあります。(^_^)
いずれにしても、藤原基経は、叔父の良房に見込まれて養子となった時から、権力の座へと進み始めたわけですね。( ^_^)/~~~
「胸騒ぐ星の入東風阿衡かな」 祖谷馬関
(注)星の入東風(ほしのいりごち)とは、陰暦十月に吹く北東の風。この場合の星は昴をさし、昴がよく見えるころに吹く風という意味で、天候が不順になりやすい。畿内、中国の船頭のあいだで使われた言葉。