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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

摂関政治を拓いた、藤原良房!

藤原氏の深掘り、、、冬嗣の次は、その子にあたる「藤原良房」ですね。(^。^)

左大臣・藤原冬嗣の次男として生まれた良房は、兄の長良を越階して驚異的に昇進し、外戚として権力を掌握、応天門の変を経て人臣初の摂政となりました。m(__)m

また、良房の養子となった基経は宇多天皇との間に阿衡事件を起こし、初の関白に就任しています。(^-^)

以下、ネットより引用。

良房は、立派な容姿を持ち、弱冠の歳で嵯峨天皇の娘、源潔姫の夫に選ばれ、承和中、参議、從三位を叙せられ、右大臣まで務めた末、辞職しようとしましたが、許可してもらえず、翌年に從二位を叙せられた、と伝えられています。(^_^)

良房は、即位当時9歳の清和天皇を補佐するため、実質的に摂政に就任し、天皇を差し置いて絶大な権力を得ました。摂政となった後も手を緩めず、 様々な他氏排斥を行うことになりました。( ; _ ; )/~~~

842年、嵯峨上皇の死を契機にした承和の変で、伴・橘両氏の勢力を削ぐ。
妹・順子の産んだ道康(みちやす)親王(第55代・文徳天皇)を立太子し、自らは大納言になる。
845年、淳和上皇(第53代)の没後、848年、右大臣兼皇太子傅(ふ)になる。
850年、文徳天皇の即位により、外戚になる。惟喬親王(文徳天皇第1皇子)を抑え、娘・明子が産んだ生後8カ月の惟仁親王(文徳天皇第4皇子)を皇太子にする。
854年、左大臣・源常(みなもと-の-ときわ)の没後、右大臣のまま廟堂の首班になる。
857年、左大臣を経ず、奈良時代以降絶えていた太政大臣、従一位になった。
858年、文徳天皇が没し、9歳の清和天皇(惟仁親王)が即位し、良房は太政大臣になる。
866年、応天門の炎上事件に乗じ、伴善男(ともの-よしお)を失脚させ、伴・紀両氏の勢力を奪う。
正式に人臣(皇族以外)初の摂政になった。
871年、准三后になった。『貞観格式』『続日本後紀』の編纂に参画した。
872年、東一条第(平安左京一条三坊)で亡くなり白河辺に葬られた。69歳。

☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

つまり、この良房こそ、他氏を排斥し、その後200年以上続く、藤原北家の摂関政治への道を拓いた人だったんですね!٩( ᐛ )و

「黄落の如く散りゆく隣家かな」 祖谷馬関

(注)黄落(こうらく)とは、広葉樹が黄色く色づいて落ちることをいう。欅やくぬぎ、ぶな、銀杏など、日を浴びながら落ちるさまは美しい。
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