お茶は、奈良・平安時代に、遣唐使や留学僧によってもたらされたと考えられています。
その後、臨済宗の開祖である栄西(ようさい/えいさい、1141-1215)は、二度、宋に渡って禅宗を学び、禅院で飲茶が盛んに行われているのを見聞きし、帰国後、日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を著し、お茶の効能を説きました。
また、華厳宗の僧である明恵上人(1173-1232)は、京都栂尾の高山寺に茶を植え、茶を奨励したことから、これが最古の茶園とされ、栂尾のお茶を「本茶」とし他のお茶とは区別されました。
また、華厳宗の僧である明恵上人(1173-1232)は、京都栂尾の高山寺に茶を植え、茶を奨励したことから、これが最古の茶園とされ、栂尾のお茶を「本茶」とし他のお茶とは区別されました。
また、足利義満(1358-1408)は、宇治茶に特別の庇護を与え、これは豊臣秀吉(1537-1598)にも受け継がれ、宇治茶のブランドが形成されたそうです。
そして、いよいよ、15世紀後半に村田珠光(1423~1502)は「侘茶(わびちゃ)」を創出し、これを受け継いだ武野紹鴎(たけのじょうおう、1502~1555)、千利休(1522~1591)らによって「茶の湯」が完成し、豪商や武士たちに浸透していったのです。(^_^)
茶頭・茶聖と崇められた千利休は、晩年、秀吉に疎んじられて、切ない最期を迎えますが、茶道と禅を結びつけ、侘び茶を完成させました。
没後、孫にあたる千宗旦から、その息子たちの代に、現在の主流である、三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)が生まれました。(^_^)
さて、「炉開き」、、、陰陽五行説で亥は、水にあたり火災を逃れるとされるため、「亥の月の亥の日から火を使い始めると安全」といわれ、茶の湯では、「亥の子」の日に夏向けの風炉をしまい、炉に切り替える「炉開き」を行います。
「炉開き」は「茶人の正月」ともいわれ、初夏に摘んで寝かせておいた新茶を初めて使う「口切り」をして、「亥の子餅」をいただくそうです。(^。^)
茶の湯の炉開きに冬の訪れを感じる一句。
「炉開きや茶の湯の香り冬支度」 祖谷馬関