創造主 「よろしい。
”存在のすべて”が知っているのはただひとつ、”ほかには何もない”
ということだけだった。
外側に比較対象するものが無ければ、いつまでも自らを知ることは
できない。
”存在のすべて”には、そんな比較対象の基準が無かった。
比較対象の基準があるとすれば、それは内部にしかない。
これが”すべてであって/ない”こと、”わたしであり/わたしでない”
ということだ。
だが、”存在のすべて”は、自らを体験的に知ろうとした。
このエネルギー・・純粋な、見えず、聞こえず、観察できず、
したがってほかの誰も知り得ないエネルギーは、自分のすばらしさ
を体験しようとした。
そのためには、自分のなかにある比較対象の基準を使わねばならな
いと気づいた。
そこで、いみじくも考えた。一部は全体より小さいはずだ。
それなら自らを分割すれば、それぞれの部分は全体より小さいのだ
から、残る全体を振り返って、すばらしさを知ることができるだろ
う。
そこで”存在のすべて”は自分を分割した。
(もしかしてビッグバンのこと?・・筆者注)
栄光の一瞬に、”これであるもの”と”あれであるもの”とになった。
はじめて、”これ”と”あれ”が分かれた。
しかも、どちらも同時に存在している。
また、”どちらでもないもの”(空間か?・・筆者注)も存在している。
こうして、突然に三つの要素が生まれた。
ここにあるもの。あそこにあるもの。そしてここにもあそこにも
ないが、こことあそこが存在するためには存在しなければならない
もの。
つまり、あらゆるものを包み込むのは無である。
空間を包含するのは、非空間である。
部分を支えるのは全体である。
このことは理解できるだろうか?
ここまでは、わかっただろうか?」
人間 「なんとなくわかったような気がする」
(・・・続く)