うどんやラーメンなどの食べ歩きと旅のブログ2

国内・海外問わず旅が好きです。以前のブログが、無料容量限界に達したのでその続きです。

2024年3月_東京都八丈島への旅(東海汽船フリープラン)その2

2024年12月30日 | 旅行

 お昼は、島らしい食事をしたいと思い、南部の「いそざきえん」を訪問しました。周回道路から少し奥に入っているので、静かな雰囲気です。

 正午前だったので、先客は無しです。

 渋い和紙のようなメニューです。(味がありますな)

「黒磯定食お願いします」

「はい」

 さしみ・焼き魚・あしたばの天ぷら・こんにゃく・海苔・煮物・ぞうすい・漬物・みそ汁です。ぞうすいは、白ごはんに変更可能です。あしたばは、「明日葉」と書き、八丈島の特産品野菜の一つです。もちろん、すべて美味しくいただきました。

 次の観光地は「黒砂砂丘」です。この看板の先は私有地となっており、車での乗り入れが禁止です。(徒歩ならOK)車を停めて(駐車場は無いので、じゃまにならないところ)、山を登っていくことになります。片道20分程度はかかります。

 ずんずん登っていくと、海が見え始めます。道は、すでに黒砂状態です。舗装はされていないので、運動靴がいいです。

 火山の噴出物が海岸に堆積して、黒い砂浜の情景を形成しています。砂丘の下は立ち入り禁止となっているので、滑り落ちないようにしましょう。火山の軽石が細かくなったような感じです。

 黒砂砂丘で腹ごなしをした後は、「陣屋跡」を訪れました。跡なので、玉石の石垣しか残ってはいませんが「享禄元年(1528年)に、小田原北条氏の代官中村又二郎が来島し、此処に陣屋を設けた。江戸時代になると、幕府は此処を島役所とし、明治33年(1900年)には東京府八丈島となり、島の政治の中心地だった。しかし明治41年(1908年)には島庁が移転したため、政治とは無関係な所となった。此処大里地区は、戦国時代から明治時代にかけて八丈島の政治や宗教の中心地であった」と書かれています。

 丸い石で造られた玉石垣が残っています。

 玉石垣は、1つの丸石のまわりを6個の丸石で囲む六方積み構造により、強度を保っているとのことです。

 八丈島訪問時に「フリージア祭り」が行われていました。(2024年3月23日~4月7日)空港の北側を上って行った畑です。

 駐車所無料・入場無料です。

 観賞用の畑と、摘み取り用の畑があります。受付をすると、無料で摘み取り体験をすることができます。また摘み取ったフリージアは、飛行機にも持ち込めるように新聞紙で包装までしてくれます。(親切だな)N村は船利用だし、東京から福岡間も長距離フェリー利用なので、摘み取りは遠慮しました。

 八丈太鼓の演奏もあり、なかなか楽しませていただきました。(素晴らしい演奏です)

 飛行機の利用はしないのですが、せっかくなので八丈島空港に行ってみましょう。空港の駐車場は無料です。

 日に数便しかないので、残念ながら飛行機を見ることはできませんでした。

 空港のショップは営業しています。八丈島は「ひっょっこりひょうたん島」のモデルともいわれているようです。(諸説あります)ドン・ガバチョ(ひょうたん島の大統領)をご存じでしょうか? 余談ですが、ドン・ガバチョの声は、故「藤村有弘」氏です。彼は、JH1BANというコールサインを持つ、アマチュア無線家でした。ニックネームを「ばんさ」というので、それにちなんで「BAN」というコールサインを割り当ててもらったという噂です。(昔の電管は、結構緩かったようだ)

 ある日の深夜、21MHzのSSBで、JH1BANのCQが聞こえていたので、呼んだところ応答がありました。お酒が好きで、アルコール変調でQSOをしていることも多かったようです。

 ドン・ガバチョに話を戻しますが、彼は「はたはっは」という独特の笑い方をします。これは、台本に「はははは」と書くところを間違えて「はたはは」と書いてしまい、これを見た藤村氏がアフレコ収録中にアドリブで「はたはった」と言ったところ「これはいい」ということで、引き続き採用されたらしいです。(TVかラジオでおっしゃっていました)

 宿は、東海汽船経由で予約した「ペンションビーチタイム」です。二食付きなので、17時にはチェックインします。気さくなオーナーが出迎えてくれました。

 夕食は、刺身です。とても美味しくいただきました。

 宿では、八丈島警察署の猪野巡査が警備中です。台座のソーラーパネルで発電し敬礼をします。

 明日は、大雨の予報です。果たして観光できるのか?


最新の画像もっと見る

コメントを投稿