菅井滋円 作品集

絵を始めて半世紀以上の歳月が流れた 絵に向かう時何時も満たされないモノがある その場がここになりつつある。

作品 6

2016年07月08日 | 菅井滋円 作品集

作品 6
柏野は北区であり 紙屋川沿いの東側になる 洛中洛外では土塁の内になるから 洛中の北西の端になる。   秀吉が紙屋川の堤に土塁を築き 京都の護りに備えた。
北大路公園で写生をしていると 話しかけた老人がこんなことを話していた 北大路の橋より高さは現在よりさらに10m上であったわたしの描いている大樹はその近くにあった と語って杖の先で2~3本残された欅を示した。
千本通りは今出川から北では 東は問屋の家があり 西は機織り職人の街であった また東西の通りである 寺の内通りを中心に 細い道はさらに枝別れし 何本かの路地がある 小さい家から織機のケタタマシイ音を発していた アトリエの向いのFさんも織屋で オバサンが織機を織っていた 織機の音は単調で長く 絵を描いていても気にならいときは 順調に描けているが 絵の調子が良くないときは 如何にも暑苦しい そのオバサンのもいまは故人となられた 他の路地の住人もいまは何処へ 閑静な隠者の棲みかとなった。

ここは長閑な一面もあった  いまは想像もできないが この近辺は七野と云って「野」のつく地名が七つある 内野 北野 平野 上野 連台野 紫野 〆野の七がそれである  「野」は畑もあり 大方は藪であったと思はれる 草花が咲き この辺り一円は叢であったのだろう。

アトリエの少し北に鞍馬口通り 蓮台寺で僧侶の話しでは 鞍馬口に門があったと話してられた 平安京の人々は 連台野辺りで死者を弔ったのだろう。

宮本武蔵が吉岡憲法の左手を奪った また源頼光が土蜘蛛を退治したところも この連台野の近辺と聞く 町外れは さまざまなことが起こるところである。

わたしはアトリエヘバイクで通いっていた 七野のほぼ真ん中にある 散歩は連台野 紫野 清少納言の天下第一と誉め称えたと云う船岡山へはよく登った。

花園の持つリリシズムはここにはなく エブリ―と云う喫茶店へは毎日コーヒーを呑み それからアトリエに入る 客は勿論西陣のオバチャンばかりで この蜘蛛の巣のように出来た街は フランスのリヨンに倣ったとのことである 細路が多いのもそのせいだと云うことである。
この先の細かい路は抜けられるかな・・・と進んでゆくと突き当たりと 思っていると 思いもよらぬ方向へ路は抜けられる 迷路のようである  ときにはその細い道は人間臭い その街をよく彷徨い歩いた。

まだまだ西陣には元気が残っていた 力織機の音はガンガン鳴っていた。 春夏秋冬絵が上手く行っているときには応援歌のように聞こえるが 何時も調子がよいわけではない 鬱陶しくもあった。

西陣の人は声が大きい 織機の間では大声になるのである  ソコソコの年配の方で声の大きい人が多い  ここでも銭湯によく行ったが 銭湯はその後何軒も無くなった 時の変化はこの町でも例外ではない 西陣とて同じであった。

この度はライフワークにして描き続けた 樹木を見て頂こう。



   


   



作品 5

2016年07月01日 | 菅井滋円 作品集
作品 5
花園のアパートの押し入れに詰め込んでいた作品と 義母の家 また自宅にも 併せて絵の山を築いていたが 友人が自慢げに話していたが 自らの描いた絵を大型ゴミと呼んで処分したと 大型ゴミと自身で名付けながら 絵を描くのは あまりにも無神経に思えるのだが どうだろう・・・?自身の評価は時間と他人に任せる事柄だとおもうのだが・・・
また私ども後輩に
「日本の宝を造っている心算で描いている」
なぞと云う先輩もいたが まさか酔っ払いもせずに そのような反り返って語るのは・・・傲慢であり肩が凝る。

自分の出来ることは  絵は自己陶酔をし易い 当然マズイ絵も出来る その絵を明くる日見ると ウンザリする 見るに堪えず また描き改め加筆する ただ他人に媚びてはイケナイ とはいつも思っていた。

この度は柏野へ屋遷りをした経緯を語ろう。
「四十不惑」と云う言葉があるが わたしはそれ位の年齢に達していた 義母の残した柏野の家をアトリエに改装した。  それは この平屋は女房に兄弟はない どうすることもできない絵の山を 兎に角当座のでも絵を描き収納できる と云う目的であったが そうは簡単に行かない 未完成のもの これらをどうかするか・・?   修正出来ない絵は止むを得ず破棄した。

その家はまことに落語に出て来そうな八軒の長屋で 路地奥にあり その昔は織機を置き 極めて少人数の人が仕事と生活をしたところであった。
ささやかな路地の一番奥にあり 幸い家の前を行き交う人は無い その長屋もいまでは三軒となった。
「大隠は路地に住む・・」か!
ただ竟の棲みかの心算であったが そのまま今日至ったが ここが住めば都となった。   ここは登記簿によれば 明治5年に建てられたものと記録があるが おそらく江戸の頃は藪か原っぱであったであろうと想像する。
知り合いの大工さんにお願いして ささやかなアトリエとなった 大きさは15畳よりやや狭い 絵を置くため頑丈な収納できるようにしてもらった だから絵を描く場所は結局六畳くらいの大きさである 明治5年は多分屋根裏の梁などにあるのだろう。

花園で描き次いできた裸婦が数枚あった 屋遷りのときに何枚かは反故にしたが その中の一枚は 叢の間に眠る女 遠くで遠雷が轟いている と云う背後を描き込んだのが「遠雷」である。
花園から柏野へ持ちこしたものでこれを柏野で完成した。

 遥かなるもの みな青し
 海の青 はた空の青
           (草野新平)

という詩のフレーズとなった。



  


  



作品 4

2016年06月24日 | 菅井滋円 作品集
作品 4
右京が開発され 双ケ丘の南の三ノ丘(さんのおか)が削られた。 花園駅の西は黒橋と云う地名だが 宇陀川に沿って南北に道路が繋がり 高尾や山越え 竜安寺からの交差点である福王子は 五差路になり南へ西京極への道路が貫通された。
花園から嵯峨へも亦幅の広い道路が通された。  「作品1」に掲げた絵はそのとき架けられた陸橋の様子を描いたものであった。
双ケ丘の西側にあった庭造りの人々が沢山住んでいた常盤(ときわ)と呼ばれる地域に 庭石や洒落た庭木を造っていた人々が何処かへ行ってしまったのだろうか・・・?
それに代わって新しい家が生(は)えきた まさしく生えてきたと云ったように見えた 畦道に代わりコンクリートの道路も出来あがった。
養豚場や養鶏場 そして造園業が失われ野壷(肥壺)も無い  茫々とトキは消えて行った。   それが何であったのか分からずにいた 否むしろ汚いモノが亡くなったくらいに思っていたのだが イマは何が亡くなったか わたしは若すぎた またまことに貧しかった わたしはあらゆるもの とりわけ脳味噌には経験が欠落していた・・・そのようなことをお構いなくトキは過ぎ去った そしてイマは昔となった。
うしなったものは川沿いの大きな桐の木であり また広隆寺への道筋にあった古木の欅であり また野壷でもあったが 何よりも長閑さが失われた いまはわたしの記憶の中にしかない  これも亦イマは昔となった。
懐かしい散歩道はこうして いまは脳味噌の中で ひとり常盤の畦道の散歩を悦しむのだ。

わたくしは光風会を卒業して 繊細なテンペラ画と彫塑の勉強を殆ど独学で始めていた。
アパートの部屋の有様は足の踏み場もない このページを開いて頂いた方々には想像できるだろう 六畳二間に所狭ましと絵と彫塑の粘土でイッパイになった部屋を。

そんな中で西陣にいた女房の母は他界した わたしは初めての喪主になった。

この頃二谷英明さんの二条城の前にあるビルで雇われ講師をしていた  夜晩く花園へと 鍵を開けその左側のスイッチを点けた 中に入ると わたしの目に入ってきたのは 粘土で半ば出来上がっていた若い男の彫塑である。

彫塑の背後は人の目には見えないが  見えない部分は確かに存在する しかし人の目に入ってくるのは平面である 背後はナイに等しいと云うことを直感した それは虚像である。

無駄なモノを削ぎ落せ 海岸に流木や貝殻には風砂により 無駄な部分を削ぎ落している 実にシャープに形状をなし 無駄のない形象を自然に削ぎ落していた。  海浜に機会がある度行き それらを拾い 追っかけ出していた。

「ものがたり」はわたしの絵から「かたり」部分が無くなった カタチ――形象は孤独になり出した。

花園春日町のアトリエを間もなく閉ざすことになった。





   



   


   
   



   





  

作品 3

2016年06月17日 | 菅井滋円 作品集
作品 3
「形象の孤独」はこの頃から始まった 花園とは京都西郊外 そこにはまだ汽車が煙を吐いて走っていた頃の話しである。
亀岡から保津峡を縫うように 黒い煙を吐きながら走っていた黒いバッハローは花園駅で休み 二条駅を目指すのだが  交差点の信号機の音がバイオリンをピッチカートする様に野辺を渡りわたしの枕元まで響く 悲しい音だ。
また東洋現像所という映像の仕事をしていた会社があった 映画フイルムだろう 道には畑も残りネギや野菜が植えられていた。   織工場の女子寮があった 街燈の陰で波板塀の鈍く投影された桐の影はいまから思うと「形象の孤独」を映しだしていた。

小さなドラマが幾つかあったが 大方消え去った 人の命は小さなドラマから出来あがっている。

小さなモノを描く これがわたしのスタンスとなった。絵の大きさはほぼ20~30号程度の夫々だ。

ご高覧下さい。



   



   


   


   




作品 2

2016年06月10日 | 菅井滋円 作品集
作品 2
前回同様公開していない 平素ひとりで自らのために描いた絵である。
引っ越しの度ごと かなりの作品を破棄したが たまたま残ったので 長期に亘りよく残ったものだと思う  まことに不思議で むしろ結果として足跡が残ったのだろう。
いまでは自分の過去を語る足跡となった 何を求めて描き次いで来たのかがよく分かる それは「カタチ」である。

「カタチ」はわがライフ・ワークであった ながいテーマとなった 「カタチ」はイメージという航跡を残して これから危険な絵を成立させる わたしの精神の根であり 幹であり 枝を伸べ 葉をつけた そしてイメージの花を開ける。

ときにはさまざま ときには危ないことも これまでの道筋を語ろうとするものである。
数多の作品の中より たまたまわたしの手元に残ったものから選んでみた。

この度は人物を描いたもので 西陣のMさんの工場に十数年 またその後花園春日町で畑から糞尿の臭気のするアパートに移りアトリエにしていた時期も長い。
この頃を省みて懐かしく 愚かしく コワイもの知らずのわが面映ゆく 眩しい若僧の記憶であった 展示するのも 些かの決断を要した。

ご高覧下さい。