菅井滋円 作品集

絵を始めて半世紀以上の歳月が流れた 絵に向かう時何時も満たされないモノがある その場がここになりつつある。

北山

2018年05月25日 | 菅井滋円 作品集
北山
4月も末になりバスの窓外は晩緑となっていた 南は御所と北窓は同志社の校舎の間の木々の梢は晩緑の中を行く われわれは京都大学総合博物館での覧会を見るために出かけた われわれと云うのはI氏と同道していた 程なく百万遍で下車して 徒歩で南へ凡そ100m 博物館へと入る 館内は外の明るさと反対に閑静で心地よい冷たさ われわれの外に2~3人の鑑賞者が居る位でまことに贅澤な時間であった。

この度の展覧は「足もとに眠る京都」―考古学から見た鴨東(おうとう)の歴史―というタイトルである。
京都はどこを掘っても歴史があると云われているが 建築するのはその下にある歴史とお付き合いであり 鴨川の東に縄文時代から今日までの歴史がある 東京の隅田川の東を墨東と云う言葉があるが 鴨川を挟みそれより東を鴨東というのであろう。 多くは京都大学の校舎建造の際発掘したものの展示で縄文時代の家を想像させる発掘址 また「六勝寺」(りくしょうじ)平安末期貴族の館が軒を並べるていたのではなかろうか。
学舎の地から掘り出した考古学は京都大学の縄文から室町時代にかけて発掘された古代の資料展示であった。
学生の頃林屋辰三郎先生が講義されていた動物園の中にあったと云う法勝寺(ほっしょうじ)にあったという 八角九重の塔は 白河法皇が建てたとの講義を思い起こされた おそらく遊牧文明の西遼の塔をモデルにしたものであろう。
京都市動物園がその地であったが二度の災禍で失われたという 往時の瓦や発掘したモノも多く それらの実像から想像した絵図が展示されていた。
縄文の土器から発掘した人々の喜びが伝わってきた 発掘に参加したであろう辛苦と喜びを3時間ほど拝見できた。
暗い館内から外へ われわれは京都大学の食道で憩った 瞼を洗うような緑 コドモがスケートボードを楽しんでいる。 学生食堂の午後である わたしたちは百万遍からバスで帰宅した。


ゴールデンウイークからは抗癌剤の副作用のため入院しなければならなくなり 病院の7階の北窓から北山を遠望することになった。
副作用の薬剤はこれまで2種類あり 初めに受けたのはネクサバールと云う薬で足の裏が白くなり歩行困難になり薬のテストであり このゴールデンウイークに受けることになったのは新しく出来たレンピマと云う薬剤であった。

わたしはネクサバールの反応は足の裏に出た薬害で新しく出たレンピマと云う薬のテストのための入院であった。
入院は10日ほどの予定で この薬のわたしの体に与える影響を調べるためのものであった。

わたしは幸い窓際のベッドでウイリアム・フォークナの文庫本「響きと怒り上・下」と云うモノを読んだ  また病窓から北山過ぎ去ったコトの繰りごとから何も生まれない 寂寥の過去は病人に与えられた試練であろう。

孤独でないと独創はあり得ない 病は薬の調整の場所と思われる。
10日の入院生活を終え 再び「考古学資料館」と「京都大学総合博物館」を訪ねた 更に足を伸ばし またたまたま入った白峰神社で蹴鞠が模様されていた 白峰神社を北へ 本阿弥光悦が生まれたというところに井戸の残っていた 歩き疲れ公園のベンチで休んだ 光悦由かりの本法寺と云う古寺に入った 本阿弥光悦の作庭した「巴の庭」 廊下の杉戸に放たれた二羽の鶴 剥落しようとする羽に僅かに残る胡粉の白。  わたしはそれらに酔っていた  突然足が攣り こむら返りを発症させてしまった。
病後間もないのに8時間に亘り病人が憑かれた様に歩きとうした余りにも向う見ずであった。

タクシーで帰宅 横臥した。







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