「学術会議の推薦名簿(105人)は見ていない」と発言
した菅君。それでは文書改ざんではないかという声に対し
加藤君は「決裁文書の参考資料としては添付されていた」
とフォローした。
では「総合的、俯瞰的」にの判断は誰がやったのだろう。
素朴な疑問である。回答は「控えさせていただく」。
中山道ウォーク、安中宿の続きである。
旧碓氷郡役所で真田重吉の街道絵を見た展示室の出口
付近「新島(旧姓・山本)八重」の自筆の手紙があった。
友人四人にあてた招待の手紙は実に達筆である。
ここ安中は新島襄の出身地なのである。没後三十年を
記念して建てられた安中教会は、日本人の手で初めて
建てられた教会。
保育園を併設するため平日の昼間は入ることは出来ず、
朝早くから保護者であろうか、周辺の住民であろうか、
若い奥様たちが敷地の内外を清掃している。
樹木が多く、大谷石と言う礼拝堂の全景見を見ることが
出来ない。歩道を清掃中の奥様に「十字架が見えないけど」
と訊くと「あらそうかしら」と自分も見て首をふるだけ。
毎日のように見ていても、案外そういうものである。
広い通りを西に進むと藁葺の「郡奉行宅跡」が角に立つ。
同年輩の男性ボランティアが丁寧に説明してくれる。この
あたりは安中城の南端、幕末の安中藩郡奉行、猪野幾右衛門
の官舎で珍しい曲り屋、明治になって払い下げられて子孫は
昭和まで住んでいた、など熱く語る。
道を挟んで立つのが四軒分の武家長屋。中下級武士はほゞ
長屋住まいだったという。前庭が整備されているが当時は
野菜畑で自給していたそうである。
このあたりは古くは野尻(野後)と呼ばれ、永禄二年
(1559)に築城した安中越前守忠政が地名も安中としたと
言われる。上野尻、下野尻などが残る。
その下野尻郵便局の先、安中宿の京都側の入口(京口)
の大木戸跡の標柱が建つ。
そのすぐ先に新島襄の旧宅への案内標識。中山道からは
少し入るが寄ってみることにする。正面は妙義山である。
二度クランクするが案内板が丁寧に設置され迷うことは
ない。数分でその旧宅跡に着く。ここも二連の武家長屋。
江戸詰めの安中藩の下級武士の長男として神田で生まれた
新島襄の本名は七五三太(しめた)、五人目でやっと男子が
生まれた父が喜び「しめた!」と叫んで名付けたという。
禁制の脱国をして乗り込んだアメリカの船長が名付けたの
が「ジョー」。英語で名無しの権兵衛を「ジョン・ドゥー」
と呼ぶからジョンだったかも知れない。
明治になって帰国した新島襄は、江戸から安中に戻った
父が建てた、この二軒長屋に帰った。東京から人力車3台
を仕立て、そのうちの2台は満載の土産だったという。
ここまでの中山道沿いは安中駅からまだ3キロ半。新島襄
の旧宅近く、季節外れの紫陽花が咲く。
朝方野暮用があったので既に11時を回ってしまった。
続きは次回、松井田駅まで。