辻本好美、辻本清美(立憲民主党)と一字違いだが・・・。
朝日新聞土曜版のトップ記事「フロントランナー」で紹介
された彼女は若きプロの尺八奏者。
尺八奏者の父、琴奏者の母を持ち、芸大音楽学部邦楽科
卒と申し分ない経歴の持ち主だが、プロ奏者となる前に
仲間と中南米を演奏して回った時の衝撃が彼女を変えた。
自由に楽しく演奏する現地の音楽家たちの中に入っては
行けなかった。かなわないと思った。高揚感、リズム感、
体全体が音楽で出来ている感じに圧倒された。
自分が未熟だと猛練習した。そして、自分自身がもっと
自由に音楽を楽しむという意識に変わった。「音が豊かに
なった」と父親が評した。
Youtubeで彼女の演奏を幾つか聴いてみた。アップテンポ
のラテン系の曲。ベースやギターの伴奏に乗って自由奔放
に吹く音は尺八を越えている。
さて、初めて乗る久留里線で小櫃(オビツ)から二駅目の
久留里に降りるとここも小さな駅。ちょうど12時だが昼は
久留里城を訪れてからとする。
久留里城まではちょうど2キロ。駅前から県道に出て
南下すると道はなだらかな下りになる。紅葉が綺麗だが、
久留里城は左の山の上かと思うとちょっと気が重い。
駅から1キロ、案内標識に従って細い道に左折し更に
左折すると、予想通り急坂が待つ。
隧道を抜けて着いた登り口、半端ない更なる急坂が
待ち構える。
少し上るとわかりやすい標高図が立つ。駐車場が登り口
だったから、700mで90mを上る13%勾配のとんでもない
坂である。三の丸の県道からは100mを越える。
「城成就して、三日に一度づつ雨降ること二十一度なり
しかば・・・」(久留里記)ということで久留里城は「雨城」
とも言う、など頻繁に説明の立札があることはそこで休憩
しろという意味であろう。それほど急な坂道である。
やがて、二の丸跡の資料館、男井戸・女井戸(オイドメイド)
を過ぎて本丸跡に着く。
まずは眺望、張り切った腿に鞭打って三層の天守閣に
登る。その階段はまさに45度である。
白樫が目立つ脇の土塁は、江戸時代の城主である黒田
直純が整備した時の天守(二重櫓)跡とされ礎石が残る
と書かれる。
戻りに二の丸跡の資料館に寄る。屋外の「上総掘り」の
使い方がよくわからないが、中にある模型で良くわかる。
大きな輪を人力で回しながら長い縄(あるいは蔓、竹)
を上下させて数百メートルの深さの水を汲み上げる方法で
ある。温泉や石油の発掘にも使えることから、今でも東南
アジア、アフリカで使用されろいう。
二の丸跡の端にある展望台に、館内にも展示されている
「鹿島人形」が立つ。悪魔や疫病を追い払う鹿島神(武神)
である。
風雨に晒されて見にくくなった展望図に代わって自作の
展望図をご覧あれ。天守と二の丸の山の下に三の丸という
極めて珍しい城郭配置である。
久留里城の歴史
十六世紀の中頃、築城した真里谷(マリヤツ)武田一族に
代わり城主となった安房の里見義堯が整備した久留里城は、
北条氏との激しい争奪戦が繰り返された。
徳川期に入って二代目の土屋家が城主となった折には
若き新井白石が一時この久留里城で過ごしたという。
内輪揉めで取り潰しになった土屋家に代わった黒田家は
初代直純から九代続き明治維新を迎え、久留里城は廃城と
なった。
ところどころの紅葉を愛でながら急坂を慎重に下りて
駅に向かう。久留里城の滞在が思ったより長くなって、
目を付けていた手打ち蕎麦屋での遅い昼食は時間不足。
久留里駅の待合室で、コンビニ弁当を缶ビールで流し
込んで帰路につく。